2016年9月30日金曜日

アイランドタワーを出ると、1階の広場に「LOVE」というモニュメントがあった。

アイランドタワーを出ると、1階の広場に
「LOVE」というモニュメントがあった。
写真は、「LOVE」を、撮ったもの。
ここに来ると、いつもこのモニュメントを思い出す。
LOVEなんていいな、と思いながら。

「雛鮨」で、ランチの「賑わい御膳」を頼んだ。お盆の上は、それこそにぎわっていたが、締めて1500円だった。

「雛鮨」で、ランチの「賑わい御膳」を頼んだ。
お盆の上は、それこそにぎわっていたが、
締めて1500円だった。
写真は、出て来た「賑わい御膳」を、撮ったもの。

お盆の下にあるのは、醤油とお茶。
お盆の下側は、左が寿司セット、右外れが味噌汁。
お盆の上側は、左から大根サラダ、
真ん中がきな粉がかかった白玉、
右がエビやら銀杏等が入った茶碗蒸し。

25年前に来たときは、締めて1000円だったような。
しかし、この内容で1500円は相変わらず安いと思った。
いろいろなものを堪能できた。

昼食に、アイランドタワーの地下1階の「雛鮨」に入った。

昼食に、アイランドタワーの地下1階の「雛鮨」に入った。
写真は、「雛鮨」の入口を、撮ったもの。
この店に入るのは、久しぶりだ。
25年前、この近所に勤めていて、出来たばかりの
アイランドタワーのこの店に良く来た。

様子は変わった。
が、ここのランチは安くておいしかったが、
久しぶりの今回も、まあまあだった。

新宿野村ビルにある税理士事務所で打ち合わせをした。私の会社を担当した人が変わった。

新宿野村ビルにある税理士事務所で打ち合わせをした。
私の会社を担当した人が変わった。
写真は、野村ビルの1階を、撮ったもの。
今日と明日と、ここでコーヒを飲んだりする催しものがあり、
テーブルが広げられていた。

税理士事務所の私の会社を担当していた人は、いい人だった。
なんでも、頼りにできた。
やめてしばらく、仕事はしないようだ。
しばらくして心機一転、仕事を始めるだろうが、幸多かれと祈る。
後任のかたも紹介されたが、この人も良さそう。

KDDIビルを少し北側に行くと、京王プラザホテルがあった。ここは西新宿高層ビル街の、発祥のビルだ。

KDDIビルを少し北側に行くと、京王プラザホテルがあった。
ここは西新宿高層ビル街の、発祥のビルだ。
写真は、京王プラザホテル東側の通りから、
京王プラザホテルを見上げて、撮ったもの。
このビルが、45年前に建ったときは、話題になった。

今日(9月30日)、新宿野村ビルの私の会社の税理事務所に行った。

今日(9月30日)、新宿野村ビルの
私の会社の税理事務所に行った。
写真は、行く途中にあるKDDIビルを、撮ったもの。
このビルには、KDDが合併してKDDIになる前、
まだKDDだった15年前ころ、打合せで何度も来た。

ここにはまた、35年前、甲州街道の下にある
NTTのトンネルから別れ、トンネルを伝わって
何階だったか忘れたが、
通信ケーブルが成端してある部屋に上がった。
そのころ、このビルが出来たのだと思う。

昨日、新宿NSビル29階のPAUSEに入って、昼食に」パスタを食べた。コーヒも飲んで、締めて710円。

昨日、新宿NSビル29階のPAUSEに入って、
昼食に」パスタを食べた。
コーヒも飲んで、締めて710円。
写真は、出て来た、鶏肉オクラあえ大葉風味の
ボロネーゼのパスタを、撮ったもの。

最後にコーヒも飲んだ。
締めて710円は安い。
道理で、お店は混んでいた。
日替わりパスタなら、同じメニューで500円。
パスタなら何でも良かったので、
日替わりパスタにすればよかったと思った(笑)。

昨日(9月29日)、新宿NSビルのATMに行った。そして1階におりて、巨大エビの造形を見た。

昨日(9月29日)、新宿NSビルのATMに行った。
そして1階におりて、巨大エビの造形を見た。
写真は、1月前ぐらいからNSビル1階に飾ってある、
巨大エビの造形を、撮ったもの。
これが巨大エビだというのを、この前初めて知った。

2016年9月29日木曜日

今日の朝、いつもの納豆、さつま揚げ、梅干しの朝食に、今日はプラムをつけたものを食べた。

今日(9月29日)の朝、いつもの納豆、さつま揚げ、
梅干しの朝食に、今日はプラムをつけたものを食べた。
写真は、今朝の朝食を、撮ったもの。
ご飯の右上に、裸であるのがプラムの実。
友達がプラムの実を持って来てくれたので、食べた。

昨日(9月28日)、マッサージのあと、マッサージのお母さんが準備してくれた昼食を食べた。

昨日(9月28日)、マッサージのあと、
マッサージのお母さんが準備してくれた昼食を食べた。
写真は、昨日の昼食を、撮ったもの。
マッサージが終わると、お母さんが
「ご飯を食べる時間があるか」と聞いたので、「ある」と答えた。

実は、あとがあるので、マッサージは10時30分から
12時30分までとお願いしたので、そう聞かれた。
お母さんが作るご飯をたべるならと、「ある」と答えた。
レタスにミニトマト、鮭、豚の角煮をいれ、ドレッシング
をあえたものがあった。

納豆まであった。
納豆は、中国にもあるのかな。
私が、納豆を好きだと言ったのかな。
それにしてもボリュームが多かった。
私が、大食いだと言ったからかな。

2016年9月28日水曜日

マッサージを終えて、JR「関内」から「横浜」に来て、「横浜」で湘南新宿線に乗り換え「新宿」に帰って来た。

マッサージを終えて、JR「関内」から「横浜」に来て、
「横浜」で湘南新宿線に乗り換え「新宿」に帰って来た。
写真は、「横浜」駅の湘南新宿線のホームに出る
エレベータを、撮ったもの。

実は、今日は新宿の会社でやることがあったので、
いつもより少し早く、マッサージを終えて帰って来たのだ。
会社で電話してみれば、無事に終わっていて、
結局私の取り越し苦労だった。
はじめてのことをやるときは、こんなこともあるさ。

今日はいつもより1時間少ない、2時間のマッサージを受けた。いつも3時間にしていたので、少し物足りないかな。

今日はいつもより1時間少ない、2時間のマッサージを受けた。
いつも3時間にしていたので、少し物足りないかな。
写真は、時間が来ると警告音を出す、時計。
2時間だけど、足の裏揉みのほか、足の吸い玉をやってくれた。
でもマッサージの時は、大部分寝ていたらしい。

朝10時20分、JR根岸線「関内」駅についた。そして、北口を出てマッサージ店に行った。

朝10時20分、JR根岸線「関内」駅についた。
そして、北口を出てマッサージ店に行った。
写真は、「関内」駅の下りホームから
「桜木町」・「横浜」方面を、撮ったもの。
ここには、今年に入って週に1回来ている。

今日(9月28日)、毎週1回のマッサージを受けに、新宿・初台から横浜・関内に行った。

今日(9月28日)、毎週1回のマッサージを受けに、
新宿・初台から横浜・関内に行った。
写真は、京王新線「初台」駅のあるオペラシティビルの
山手通り側を、甲州街道に向かって、撮ったもの。
左側の緑が、今日はすがすがしかった。

先週は、マッサージ店で「今週はやることがあるので休み」
と言って来たのだが、昨日電話して、今日の午前中は
空いているのを確認して、2時間だけ予約したのだ。
もう毎週1回のマッサージ受けに、中毒したみたいだ。
時間があけば、行きたくなる。

2016年9月27日火曜日

寝屋の東側のベランダから、20時北の方を見ると、3つのビルが見えた。

寝屋の東側のベランダから、
20時北の方を見ると、3つのビルが見えた。
写真は、部屋の東側のベランダから
北の方に見えた3つのビルを、撮ったもの。
あれはなんという名前のビルだろう。わからない。

20時、部屋の東側のベランダにでて、東側に聳えるようにある新宿パークタワーを見た。

20時、部屋の東側のベランダにでて、
東側に聳えるようにある新宿パークタワーを見た。
写真は、部屋の東側のベランダに出て
東側に見える新宿パークタワーを、撮ったもの。
下の方に見えるビル群は、十二社通りの西側のビル群。

今日(9月27日)17時30分、マンションに帰ってきた。いつものように、自分の部屋の郵便受けを見た。

今日(9月27日)17時30分、マンションに帰ってきた。
いつものように、自分の部屋の郵便受けを見た。
写真は、たくさんの部屋の郵便受けを、撮ったもの。
私の部屋の郵便受けには、何も入っていなかった。
3日に2日は、何も入ってないが、今日はその日だった。

2016年9月26日月曜日

買ったトレイで、昼食にパスタを作って食べた。柿を切ったもの、キャベツにマヨネーズをかけたものも食べた。

買ったトレイで、昼食にパスタを作って食べた。
柿を切ったもの、キャベツにマヨネーズをか」けたものも食べた。
写真は、トレイの上の今日のt夕食を、撮ったもの。
写真上の左は柿、右はキャベツ。
写真下の左はパスタ、右はお茶。

パスタの皿は、パスタを茹でて、パスタソースをかけたもの。
パスタソースは、キャベツを炒め、昼食の具、人参、コーン、
グリンピースに肉を入れ、さらに、たらこクリームを入れ熱した。
だから、パスタソースが多くなって、
茹でたパスタは、パスタの皿からほとんど見えなくなった。

トレイの上に、ちょっと見えるのは、
出雲の「鵜鷺の藻塩」の入った袋。
この塩は、簡単に言うと海水・海藻を炊き上げた、自然塩。
パスタソースが多くなったので、この塩で味付けをした。
どれも、美味しかった。と、思う(笑)。

角筈区民センターの前で、電話工事をしていた。多分、道路の下に」あるマンホールで、ケーブル工事をしている。

角筈区民センターの前で、電話工事をしていた。
多分、道路の下にあるマンホールで、ケーブル工事をしている。
写真は、道路の「角筈区民センタ前交差点」から、
12時20分、十二社通りを北に向かって、撮ったもの。
向こう右の林が、新宿中央公園。

左の高いビルが、角筈区民センタ。
その右下の道路上に、黄色い屏風を置いて、
工事の人が交通整理をしながら電話工事をしていた。
エクシオの看板があった。
エクシオが、このエリアの電話工事を実施しているのだ。

2016年9月25日日曜日

山手通りに出て、NTT東日本本社ビルの前を歩いた。向こうから走ってくる人が、何人もいた。

山手通りに出て、NTT東日本本社ビルの前を歩いた。
向こうから走ってくる人が、何人もいた。
写真は、山手通りNTT東日本本社ビルの前で、
18時40分北側を向いて、撮ったもの。
写真、歩道の右側にNTT東日本本社ビルがある。

(小さくは写っているのだが)写真では見えないが、
向こうから走ってくる人が、次から次に現れた。
そうか、夕方走る人がこんなにいるのかと、思った。
大げさだけども、いろいろな人生があるのだとも思った。



夕食を食べ終わって、地下1階の広場に出た。そこには、巨人象があった。

夕食を食べ終わって、地下1階の広場に出た。
そこには、巨人象があった。
写真は、木の向こうに見える巨人象を、撮ったもの。
広場に出ると、外の風が気持ちよかった。
巨人象は、静かに1階のテラスを見上げている。

メインデッシュには、コンビBを頼んだ。120gのステーキと120gの焼き肉。締めて1200円。

メインデッシュは、コンビB。
120gのステーキと120gの焼き肉。
締めて1200円。
写真は、メインデッシュを、撮ったもの。
メインデッシュも大盛、ライスも大盛。

メインデッシュには、カイワレ大根、玉葱、もやし、コーンが
ついており、ニンニク、胡椒をかけた。
バターもついており、マヨネーズもかかっている。
本当は自分で取ってくる、フリードリンクのウーロン茶は、
勝手知ったる接客の女性が、持って来てくれる。

食べすぎかなと思うが、週に一度なら、これも良い。
全部、食べて、1200円のお勘定をして出る。
これでは、ここに来る回数が増えるが、
次回は、オペラシティー地下1階以外にも行ってみよう。

サラダとウーロン茶が最初に出て来た。メインデッシュが出てくるまで、「ゆる呼吸法」の本を読んだ。

サラダとウーロン茶が最初に出て来た。
メインデッシュが出てくるまで、「ゆる呼吸法」の本を読んだ。
写真は、サラダとウーロン茶と本を、撮ったもの。
サラダには、キャベツ、レタス、コーン、
人参、ドレシングが入っている。

「内臓力を高める「ゆる」呼吸法」は、私が毎朝している
約1時間の運動のなかに、取り入れている。
それでアマゾンで頼んで、最近もう一度買って、読んでみた。
だから、こういうところにも持ち歩いている。
要は、呼吸法で体幹を鍛えようというもの。

今日(9月25日ー日)の夕食を食べるため、オペラシティビル地下1階の「TEXAS」に行った。

今日(9月25日ー日)の夕食を食べるため、
オペラシティビル地下1階の「TEXAS」に行った。
写真は、「TEXAS」の入口を、撮ったもの。
最近、日曜日の夕食に、
「TEXAS」に行くことが多くなった。

理由は簡単。
値段の割に、ステーキライスが安く食べられること。
お店の接客の女の子が、私を覚えてくれていて、
あまりものを言わなくても、だいたい通じること。
うーん、次回は変化を求めて、別なところにも行ってみようかな。

城山三郎さんが書いた、「少し無理をして生きる」を読んで、読書感想を書きました。

城山三郎さんが書いた、「少し無理をして生きる」を読んで、
2012年9月、私は下の通り、読書感想を書きました。
写真は、ウェブで出て来た本の表紙を、撮ったもの。

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読書感想文(少し無理をして生きる・・・城山三郎)
 
城山三郎さんは、1927年、愛知県名古屋市に生まれ、
2007年神奈川県茅ヶ崎市の自宅で死にました。
<一橋大学を卒業し、経済で大学の教員を務めていましたが、
<35歳で大学教員をやめて専任作家となっています。
 
城山三郎さんは、1927年愛知県名古屋市に生まれました。
そして太平洋戦争終戦間際には、
愛知工業専門学校に入学しています。
技術系の学校にはいりましたから、軍隊への徴兵は
免除されるのですが、志願して予科練に行きました。
 
そこで、特攻隊になるための訓練を受けるのです。
しかし特攻に行く前に終戦になり、
特攻隊にはいかずに済みました。
終戦のときは若干17歳です。
 
今の17歳の人たちは、
特攻に行くなどと言うことを想像できるでしょうか。
それも自分の意志で、行こうとしているのです。
もう私たちの世代でも、
こういう風には考えられなくなっていました。
 
だから、城山さんの世代は、
普通ではない経験をしているのだと思います。
予科練から戻ったとき日本の人々は、
城山三郎さん達が死ぬ気でお国のためと思ったのに、
城山三郎さん達を予科練崩れとして非難しました。
それから城山三郎さんは、組織と個人を考え続けます。
 
城山三郎さんは1946年一橋大学の予科に行き、
1952年一橋大学を卒業しました。
大学で城山三郎は、洗礼を受けましたが、
私はその洗礼の経緯等はわかりません。
 
卒業後お父さんの病気もあって、
地元の愛知県岡崎にあった、愛知学芸大学の助手になります。
そして友人の勧めで月1回の読書会に参加、
また名古屋の「近代批評」同人に加わるなど、
作家活動への歩みをはじめます。
 
そして1957年「輸出」で、文学界新人賞を受賞、
1959年「総会屋錦城」で直木賞を受賞しました。
城山三郎さんは、書くべきことを調べて
自分の頭で考えています。
 
だから自分の頭で考えた結果のその小説が、
私たちを感動させるのでしょう。
その結果だと思いますが、
この人が日本文学の世界に経済小説の分野を、
初めて切り開いたことは有名です。
 
1968年大学教員を退職し、それから作家業に専念しました。
1974年に、廣田弘毅を書いた
「落日燃ゆ」は有名になります。
そしてこれは1975年に毎日出版文化賞、
吉川英治賞を受けました。
 
城山三郎さんは経済小説、
歴史小説等の本を沢山書き続けましたが、
2007年神奈川県茅ヶ崎市の自宅で、
79歳でなくなりました。
 
++++++++
<この本との出会い>
 
本屋に行ったら、あったから買ったというのが本音です。
私は、25年前ぐらいには、
城山三郎さんの本をよく読んでいました。
25年ぐらい前に、一緒に同じ職場にいた女性がいて、
私が城山三郎さんの本を良く読んでいたのを、
その女性に目撃されています。
 
15年ぐらい前にその女性達と一緒に懇親しましたが、
その女性はその懇親会で私の持っている本を見て、
「また城山三郎さんの本?」と言いました。
そのとき私は城山三郎さんの本への熱も、
冷めていたのですが、私が持っていたのは
たまたま城山三郎さんの本だったのです。
 
私はぎょっとしました。
「何故、城山三郎の本と思ったのですか」と聞いたら、
「あのころ八木さんは、
いつも城山三郎の本を読んでいたもの」と言います。
 
なるほどそのころの私は、
城山三郎さんの本を中心に読んでいたのだと思いました。
この人の「官僚たちの夏」を初めて読んでから、
面白いので次から次とこの人の本を読んだ気がします。
そしてその時この人の本には、
読んでも裏切られることはないという印象を持ちました。
 
城山三郎さんは、終戦のときは
17歳がもうすぐ終わるときで、予科練
(特攻隊にいく宿命を持って、訓練されていました)
にいます。
城山三郎さんは、理工系の愛知県工業専門学校に入ったので、
入隊は徴兵猶予になるも、志願して予科練に入りました。
 
あの頃の若い人に違わず、城山三郎さんも
「国のために死にたいと考える」熱血漢だったのです。
しかし入った軍隊は、そんな美しさなんか微塵もない世界で、
そこで城山さんは考えました。
そして、特攻隊で死ぬ前に終戦となり、
この経験を城山三郎さんは「大儀の末」に書いています。
 
(あの戦争は軍人がやっただけだという、
アメリカのプロパガンダに乗って)、
戦争なんか昔から反対だったみたいな顔をする、
戦後の文化人(大部分は戦争中は好戦的だったと思います)
と違って、嘘などつきようもないほど、
城山三郎さんの戦争中は軍国少年だったのです。
 
私は熱血漢で、戦後も嘘をつかず、
自分と向き合った城山三郎に引かれたのでしょう。
多分、この人の本を好きになった人の大部分が、
戦後も嘘をつかなかった
城山さんを好きになったのだと思います。
 
戦後ほとんどの人が自分の心に嘘をついて、
反米主義から対米従属に変わるという
価値観の大変動のなかで、
自分の精神の安定を得ていましたから。
 
この本には、城山三郎さんが本を書くにあたって
主人公の人々を調べたことが、多角的に書かれていました。
どこかで城山三郎さんが、
講演したもの等を集めた本なのでしょう。
 
戦時中の日本のエリート(広田弘毅たち)と
現場の人間たち(城山三郎さんたち)を、
城山三郎さんは比較しようとして、
その城山三郎さんの敵方の大将の
広田弘毅を調べていきました。
 
しかし城山三郎さんは、
ついには広田弘毅の味方になって広田弘毅について、
こういう人もいたということを書いたのが
「落日燃ゆ」という小説で、
「落日燃ゆ」は発行当時有名になりました。
 
それらのことが、この本には書いてあります。
やっぱり、今回も損を感じない読書になりました。
 
++++++++
<この本の構成>
 
この本に書いてあることは、次の通りです。
( )内はページ数です。
 
-1.初心が魅力を作る          (8ページ)
-2.人は、その性格にあった事件にしかあわない
(20ページ)
-3.魅力ある指導者の条件        (20ページ)
-4.父から息子へ伝えるべき事柄     (14ページ)
-5.少しだけ無理をしてみる       (24ページ)
 
-6.自ら計らわず            (22ページ)
-7.人間への尽きせぬ興味        (18ページ)
-8.強く生きる             (16ページ)
-9.人間をささえる3本の柱       (18ページ)
-10.男子の本懐            (20ページ)
 
この本は、講演などで語った城山さんの声を、
まとめたものです。
だから、上の一つ一つの章に、
城山三郎さんの歴史上の人物への思いが、
小説と言う形でなくストレートに語られていました。
 
これを読むと、日本には多彩な人が、
奇跡のような人が、大勢いたのだなと思います。
ときどき私も、城山三郎さんの怒っている話に、
「そんなに怒らないでよ。あなただって、
間違いもあるでしょう」と言いたくなりました。
 
しかし、そういう怒る熱血漢の
城山三郎さんの言うことだから、
この本は私に面白く感じられたのだと思います。
 
ここに出てくる、どの人も印象に残りました。
が、明治以降の人で特に私の心に残った人は、
渋沢栄一、田中正造、
浜口雄幸、井上準之助、
廣田弘毅でしょうか。
 
どの人達も、私利私欲のない、
素晴らしい人達だと思います。
こういう人達が日本を作ってきたのだな、
それは「日本は良い国になった」はずだな、と
私は思いました。
 
19301114日午前9時少し前、
浜口雄幸さんは東京駅で襲われました。
城山三郎さんは、
御木本幸吉と浜口雄幸と広田弘毅について、東京駅に3人が、
それぞれの理由で居合わせ、それぞれの行動をとったのを、
この本の「はじめに」に書いています。
 
この3人は城山三郎さんが特に好きな3人のようですが、
それぞれの行動に、その生き様が現れており、
それがこの本の通低音になっているようでした。
 
こういう生き様に較べると、私などが生まれた戦後は、
ハングリーであったものの一本調子の成長の時代で、
ある意味何も考えなくて良かったのでしょうか。
振り返れば戦争の傷を直接的には負ってない私たちは、
ノンポリで過ごしたようにも感じます。
 
なるほど、これは戦前の武士道、
「腹をくくった人生」が、
また私たちのこれからの価値観に、
甦ってくるかも知れないなと思いました。
 
本のタイトルは、
城山三郎さんが最初に「輸出」で新人賞をもらったときに、
反対票をいれた(3人賛成、2人が反対で
賛成票がかろうじて多かったこの年の新人賞です)、
一橋大学の先輩の伊藤整さんが、
言った言葉からとっています。
 
「はじめに」からその部分を次に引用しました。
 
――「新人賞の選考会では、
一橋の後輩のあなたに何もしてやれなかったけれども、
ひとつだけ忠告するよ」・・
「あなたはこれから先、
プロの作家としてやっていくのだから、いつも
自分を少しだけ無理な状態のなかに
置くようにしなさい」。・・
私にとってありがたいアドバイスになりました。
 
+++++++++
1.初心が魅力を作る>
 
読書会での英文学者の工藤先生(多分愛知学芸大学での先生)
の言葉が、印象的に語られます。
なにか塩野七生さんの、イタリアのルネッサンスの時代
フィレンツエの人、挫折したマキャベリが
誰も見ていないのに正装して、山小屋で蝋燭の火のなかで
後世に残る「君主論」等を書いた話を思い出しました。
 
次に私は、城山三郎さんが砂漠の都
ラスベガスで見て・書いた、
サミー・デービス・ジュニアの話を読みます。
サミー・デービス・ジュニアは、
これこそプロだと思いました。
 
プロは常に初心を忘れず、努力しているのですね。
サミー・デービス・ジュニアの汗が、飛んでくるようでした。
鳥羽の真珠王御木本幸一も、凄いですね。
貧乏だった若き日に、講演会で一番前に居て、
質問したりさりげなく自分のPRをしたり。
それをやり続ける、しかもそれを死ぬまで。
 
++++++++
<2.人は、その性格にあった事件にしかあわない>
 
この章は、渋沢栄一を中心にかかれていました。
江戸時代から明治の人、渋沢栄一に、
私は山本七平さんの「論語」を読んで興味を持ちます。
そしてそれから私は、
城山三郎さんの「勇気堂々」を読みました。
 
2つの本を読むと渋沢栄一さんが、どういう人であったか、
渋沢栄一さんの周りにいた人も含めて分かります。
渋沢栄一さんはお父さんから実務を通じて、
経営を学んだと思いました。
それが血となり汗になって、
それからの渋沢栄一さんを決定したと思います。
 
埼玉県深谷市の血洗島(地名です)で、
江戸幕府がまだ力を持っていたころ、
武器を隠し集めるなどして、
村の若い者で維新のため城を襲う決起をしました。
しかし、京都にいてたまたま帰って来た、
親戚に時勢を説かれます。
 
そして維新の決起を諦めました。
それから当時のアナーキな国際都市、
京都に逃げ込むのです。
その後は波乱万丈で、必ずしも自分の思ったように、
人生が動いていったわけではありませんでした。
 
が、大局としては、渋沢栄一を全力投球させ、
それが日本の国家の役にたったのは、
今の官民の枠組みが、
その多くを渋沢栄一に負うことになっていることで分ります。
個人の希望だけでなく、天がその人を求めた。
渋沢栄一を見ると、そのように思います。
 
++++++++
<3.魅力ある指導者の条件>
 
王蒙さんという文化大革命後文化相を勤めた人が、
昔日本に来ました。
王蒙さんは文化人で、作家でもあります。
その人と話して、城山三郎さんは思いました。
切換の早くできる人がえらくなれるのだなと。
 
王蒙さんはそのとき政治家で、
日本との交渉もこなしていますが、お茶をいっぱい飲むと、
ぱっと切換ができて詩もかけたそうです。
その王蒙さんは大きな中国での指導者の条件として、
次を上げました。
 
「非常に強い意志」
「慎重さ」
「程度を見極める力」。
戦国時代の魅力ある人として、
伊達政宗、毛利元就を挙げていました。
 
伊達政宗は、戦国時代が生んだ日本の武将3人、
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と交わり、
その都度大きく自分を変え、戦国の世に生き残って生きます。
しかし、個人としての伊達政宗は、
沈思黙考の人でもあるようで、
そのエピソードのいくつかが語られています。
 
毛利元就は私から見ると不思議な人でした。
戦争において行われる、毛利元就の徹底的な謀略の極みは、
これこそ諜報と思わせます。
一方、天下の律義者といわれ、自分の危険もかまわず、
味方とした人の窮地に飛び込んでいくさまは、
これが本当にあの徹底的な
謀略を仕掛けた人かとも思いました。
 
しかしこの2人に、
王蒙さんの言った指導者の条件が、
完備していたことには、驚くばかりです。
 
+++++++++
<4.父から息子へ伝えるべき事柄>
 
毛利元就が、
子供たちの団結を説いていたことは間違いないでしょうが、
有名な「毛利元就の3本の矢」は、
後世の作り話だろうと言っていました。
 
毛利元就の子達
(長男は早逝したので、長男の家系は孫の輝元)が、
毛利元就の死後、関が原でそれぞれの戦いをします。
 
が、負けた石田三成方の西軍の総大将をした、
孫の輝元は、
関が原に勝った東軍の徳川家康に、冷たくされました。
しかし、他の叔父が貰った領地を譲られます。
そして、これが明治維新の主役、長州藩になりました。
 
安国寺恵瓊は織田信長の時代、
織田信長の失脚と豊臣秀吉の台頭を予言したことで、
有名になっています。
 
毛利元就は諜報を大事にして、
その情報を齎す、どこにでも出入りしていた
山伏や僧を大事にしていたのですが、
その中でも安国寺恵瓊を特に
大事にしていました。
 
しかし、関が原のころは、
安国寺恵瓊も毛利家傘下の大名になっていたので、
もう情報力も少なかったようです。
 
時代は変わっていたのに、
毛利元就と同じことをして
安国寺恵瓊を大事にしすぎた
毛利輝元は、変化に対応できなかった
暗愚な大名とされています。
 
キングスレイ・ウオード
「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」は、
城山三郎が翻訳しました。
ビジネスマンとして、苦労して成功してきた父が息子に、
細やかに会社、人との付き合い方での体裁きの仕方を
教えるもので、その内容は感動的です。
 
一言で言ってしまえば、
謙虚であれ、
人に感謝しろ、
情報を取るのを大事にしろ、
行動する時は果断に行動しろということでしょうか。
 
++++++++
<5.少しだけ無理をしてみる>
 
いつも視界ゼロの時代なのだと、私は思います。
先(将来)を読もうとしても読めませんから。
城山三郎さんも視界ゼロの時代を生きてきました。
作家になったときが、
その状態がもっとも激しかったようですが。
 
愛国心から17歳で志願して予科練に行きました。
行った先の軍隊で、これから特攻に行こうとする
幹部候補生は、粗末なものを食べているのに、
下士官だけが美味しいものを食べる、
社会の現実をそこで見せられます。
 
人前で笑って予科練に送り出した、
城山三郎さんの母親は家に帰って一晩中泣いていました。
妹にあとで聞きましたが、社会の現実はこうだったのです。
 
そして広島に原爆が落ちて、
自分の子どもたちを殺された、
通りすがりの老婆に腕を捕まれて、
「兵隊さん仇をとってくれ」といわれました。
 
そして敗戦。
帰ると「予科練くずれ」と、みんなから蔑まれます。
17歳で価値観の激変にあい、
「組織と個人」を
城山三郎さんは考えるようになりました。
 
このタイトルは、
大学の同窓の先輩、伊藤整さんが、
城山三郎さんが新人賞を貰ったとき言った言葉です。
作家を志して、作品に集中するとき、
「少しだけ無理をしてみろ」というものでした。
 
城山三郎さんは、作家を志して最初、
軽い心身疾患にかかったのだと思います。
やせてきました。
お医者さんのところに行ったとき、
「定期的に、1日仕事を忘れて外へ行ってみろ」
といわれました。
 
それから、ときどきゴルフに行くようになりました。
このゴルフに行くようになって、
知り合って気が合ったのでしょう、
大岡昇平さんと親しくなります。
 
このとき城山三郎さんは広田弘毅を取材していて、
広田弘毅の家族の人が
何も話してくれないので、困っていました。
大岡昇平さんにそれを話したところ、
「広田弘毅の長男は、オレの学校時代の親友だ。話してやる」
といわれました。
 
それから城山三郎さんの広田弘毅の取材が進みます。
広田弘毅が総理になるとき、
天皇陛下とはいろいろあったようですが、
軍人が貰うことが多い勲章に、
文化勲章を追加し、庶民を対象にしようということでは、
意見があいました。
 
また戦後多くの人から、広田弘毅に対して
「総理大臣だったのに、何故軍部の独走を
止められなかったのか」という批判がありましたが、
天皇の側近だった、西園寺公望は、
「あれが止めるせいいっぱい」と言っています。
勿論、死刑になった広田弘毅は、
まったく弁解していませんが。
 
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<6.自ら計らわず>
 
広田弘毅は、福岡のイシヤの倅です。
イシヤのせいもあるのでしょう。
小さいときから、広田弘毅は、字がうまかった。
それを見た先生が、親に中学校に行かせることを勧め、
また別な先生がついには大学まで勧めました。
 
東京大学には奨学金を貰いながら行きます。
下宿代を安く上げるため、何人かで家を借り、
賄い婦としてやはり貧乏だった女学生、
静子さんを雇いました。
この静子さんが、後に広田弘毅の奥さんになります。
 
広田弘毅は外務省に入りますが、
自分から、どうしようとは動きません。
自然体で行かせられれば行くし、
引かれれば引かれるという具合です。
 
若いときから強情であり、あちこちで組織の人とぶつかり、
有名な人の娘さんと結婚した、
同期の吉田茂さんとは対照的でした。
しかし、そんな広田さんが先に総理大臣になります。
世間が求めていたということでしょう。
 
広田さんは、
まったく日本最初の庶民あがりの総理大臣です。
死刑になったことなんか関係なく、
まったくそれに私は快哉を叫びたくなりました。
 
戦後、「多くの軍人が死刑になるなかで、
民間からも誰か死刑」をというのが、
一般の求めだったようです。
広田弘毅は東京裁判で、なにも弁解しませんでした。
アメリカでの事情聴取では積極的に話したようです。
 
「そのとおりです」「そこに私はいました」。
誰でも嘘をついたり、ごまかしたりすることが前提で
出来ている、検事や弁護士の論理のもとでは、
こういえば死刑になるのでしょう。
 
判決が出たとき、キーナン検事までが
「何という馬鹿げた判決だ」と言ったそうです。
私はそれまで東京裁判のキーナン検事は嫌いでしたが、
この言葉を聞いたとき、
キーナン検事にも少しはいいところがあったと見直しました。
 
判決が出た日、広田弘毅の家族は五目御飯を食べて、
「お父さんも裁判では苦労が多かったと思うけど、
これで楽になる」と言って祝いました。
翌日奥さんは青酸カリを飲んで
蒲団のなかで死んでいます。
 
それを聞いた広田弘毅は、ウンウンと頷いていました。
まったく、天国で結ぶ恋です。
こんな奇跡のような夫婦が居たのだな、
と私は思いました。
 
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<7.人間への尽きせぬ興味>
 
鈴木善行。中曽根康弘、盛田昭雄、大賀典雄、
水上達三等が語られています。
みんな魅力的に語られていました。
共通するのはなんでしょう。
 
人生に対する誠実さでしょうか。
人が分るということでしょうか。
矛盾も飲み込む、懐の広さでしょうか。
世間を見る切り口の鋭さでしょうか。
人間に対する感謝の気持ちでしょうか。
 
蟻(孜々英英と働く)ようであり、
トンボ(複眼を持っている)のようであり、
そして人間であった人達だったようです。
 
ブッラドレー(ロサンゼルスの市長)は黒人で、
前は警官でした。
この人は体が大きく走るのが速いので、
警官のとき犯人を見つけると、
走って追いかけていって必ず捕まえます。
 
最後は犯人がブッラドレーに見つけられると、
諦めて捕まえられるのを待っていたそうです。
そして、ロサンゼル市長としても功をあげ、
1982年のカルフォルニア州知事選挙では、
事前の世論調査では、圧倒的に勝つといわれていたのが、
開票したら白人の対立候補に負けました。
 
クレイボーン(料理評論家)は、
有名になってしまって、食べに行くと
料理研究家用のおいしい料理を食べさせられたそうです。
それで有名になっても、顔を知られなかった、
料理評論家を見て、
私もあのようになればよかったと言ったそうです。
 
それでクレイボーンは、良い料理を見つけると、
それを自分で作ってみて、
それからその料理を評論する言葉を言ったとのこと。
どんなことにも、
自分の困難を突破する方法はあるのですね。
 
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<8.強く生きる>
 
この章では、今東光、野上弥栄子、中原誠のお父さん、
中原誠、田中正造等が出てきました。
どの人も、様々に生きていると思わせます。
 
中原誠は、私の生まれた年と同じ、
1947年生まれで知っていました。
20歳のころから、天才棋士として、
それまで将棋界を牛耳っていた大山康晴、升田幸三に
割って入ってきて24歳のときには
大山康晴から名人位を奪取、
私と同じ年の人が凄いなと私は思っています。
 
中原誠はそのころから、いい顔をしていました。
そのお父さんは、満州に教員として行っていたそうです。
満州の奥地にいて、戦争に負けて日本に帰ってくるのが大変。

生徒の多くも死にました。
 
お父さんはなんとか帰ってきましたが、
師範学校を出ていたので、教師に戻れという誘いに、
「私は教員の資格(精神的にですが)はない。
沢山の生徒を間違えて導き、そして殺してしまった」
と断ったそうです。
こういう依怙地さは、なんでしょう。
 
そして棋士になった中原誠に、
普通は中学校を終わるところが高校に行かせています。
こういうお父さんに大きな愛情を感じるのは、
私だけでしょうか。
読書家の中原誠さんも、
素晴らしいと城山三郎さんは言っていました。
 
「辛酸」に出てくる田中正造はすごいのですね。
代議士で次は国会の議長になろうかと言う人が、
それを投げ打って、足尾銅山の告発で動いたのですね。
盟友であった大隈重信の可愛がっていた植木に、
「お前が安全だというのだったら、かけても大丈夫だろう」
といって、足尾銅山の廃液をぶちまけたとか。
 
「大雨に 打たれたたかれ 
いく牛を 見よそのわだち 跡かたもなし」。
これは田中正造の作った句です。
田中正造の死に際に、大勢の人が集まってきましたが、
田中正造は言いました。
 
「私に同情して集まったのだろうが、
私は運動を継続する人こそ求めている」と。
村の人が頼んだ、中村弁護士があとを引き継ぎました。
田中正造のあとを継ぐとろくなことがありません。
それでも中村弁護士はやりました。
そうか、こういう人の累積が、今の日本かと思います。
 
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<9.人間をささえる3本の柱>
 
戦後アメリカの駐在員でいった人には、
その家族も含めて悲惨な出来事が沢山ありました。
アメリカ人・西欧人と
日本人の価値観の違いもあったと思います。
それをアメリカにいた日本人医師が言っていました。
 
人には3本の柱、セルフ、
インテマシー、アチーブメントが必要だと。
セルフは自己、インテマシーは家族等周りの支え、
アチーブメントは仕事の達成感。
 
セルフを作るのがうまいのは、英国人。
インテマシーを作るのがうまいのはアメリカ人。
アチーブメントを作るのが上手いのは日本人。
この3本のうち、
1本が倒れても2本の足でなんとか立っていられる。
 
しかし2つ倒れてしまうと、持ちこたえるのが難しいと。
そうでしょう。
しからば、私たちはどうしたら良いのですか。
それはその人の一生をかけて、
自分で見つけていくしかないのかも知れません。
 
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<10.男子の本懐>
 
男子の本懐は、ライオン宰相の浜口雄幸さんの話です。
浜口雄幸さんは高知の生まれでした。
高知の人は喋らない人が多いのでしょうか。
浜口雄幸さんは無口で笑わない人だったようです。
奥さんにも「笑うな」と言ったとか。
 
私の高知の生まれの先輩は、
親から「男は、3日間は口を聞くな」と言われたとか。
私が良く喋るので、
私に「男は喋るな」という意味で言っていました。
でも私は、笑ったほうが、
キラー細胞が出ていいのにと、今でも思っています。
 
原則を曲げない浜口雄幸さんは、最初に勤めた大蔵省で、
上司とぶつかり、ずっと左遷の憂き目にあいました。
でも、左遷で地方周りをさせられていても、
当時の世界の中心で出されていた、雑誌「タイム」をとって、
読むのだけは辞めなかったようです。
 
浜口雄幸さんが総理大臣になったとき、
政党も違えば、大蔵省出身でなく日銀出身で、
当時大臣に呼ぶべくもなかった、
貴族院議員の井上準之助さんに、
大臣の白羽の矢を立てました。
 
先に言えば仲間に反対されるのは分っていたので、
ギリギリまで黙っていて言います。
「オレは国民に人気のないデフレ政策を、
やるから一緒に死んでくれ」と言って、
井上準之助さんを拝み倒し入閣させました。
 
浜口内閣は、進歩的法案をどんどん通していきます。
これに一番困ったのは、共産党だったとか。
共産党に居た人が、
「当時は困った。私たちの主張を浜口内閣は、
どんどん実現してしまうから」と言っていました。
 
城山三郎さんが取材にあたって一番困ったのは、
浜口雄幸さんと井上準之助さんの2人の家族は
まったく相手の家族を知らないことだったとか。
しかし、浜口雄幸の末娘だった人が思い出してくれた言葉に、
これで小説が書けると、城山三郎さんは思ったそうです。
 
その言葉は、「父の葬儀に、
井上準之助さんはワンワン泣きながら入ってきたわね」。
井上準之助さんは、普通そういうとき泣かない人だったとか。
そして、井上準之助さんも凶弾に倒れました。
「私を分る人が、一人いればいい」。
二人はそう思っていたような気がします。