2016年8月31日水曜日

マッサージを終わって、JR根岸線「関内」駅から、新宿に戻った。

マッサージを終わって、
JR根岸線「関内」駅から、新宿に戻った。
写真は、「関内」駅の「横浜」駅向かいのホームを、撮ったもの。
ここから「横浜」駅に出て、湘南新宿線に乗り換え、
新宿に戻った。

「足つぼ最好」で、3時間のマッサージを受けた。ここのマッサージは、上手だと思う。

「足つぼ最好」で、3時間のマッサージを受けた。
ここのマッサージは、上手だと思う。
写真は、マッサージ後に出て来た、
ウーロン茶と肉まんを、撮ったもの。

マッサージは上手だと思うが、
私のしぶとく悪い足は、なかなか良くならない。
毎年だんだん足が悪くなってきたから、
今年になって始めたマッサージで、
悪くなるのが、止まったか遅くなったと考えるしかない。

「足つぼ最好」の入口には、お店が2週間の休みの間、水も与えられていなかったのに、山ぶどうの葉が茂っていた。

「足つぼ最好」の入口には、お店が2週間の休みの間、
水も与えられていなかったのに、山ぶどうの葉が茂っていた。
写真は、入口脇の山ぶどうが絡まった手すりを、撮ったもの。
根元の土を見たら、大きな鉢に山ぶどうは植わっていた。
が、さすがに、葉っぱは小さかった。

今日も、週に一回の横浜・関内通い。家のマンションから1時間20分かけて、「足つぼ最好」へ行った。

今日も、週に一回の横浜・関内通い。
家のマンションから1時間20分かけて、「足つぼ最好」へ行った。
写真は、横浜新道「伊勢佐木町入口交差点」から
東側、馬車道方面を、撮ったもの。
右側に立つ緑の鉄柱には、「馬車道」と書いてある。

箸置きがあった。今日の朝食には、箸置きを使った。

箸置きがあった。
今日の朝食には、箸置きを使った。
写真は、いつもの納豆の朝食を、撮ったもの。
写真下の右側に、箸置きに置いた箸がある。
毎朝このメニューで、我ながら不思議だが、飽きない。

2016年8月30日火曜日

地下道を通って、新宿ワシントンホテルに出た。そこで思いついて、1000円散髪のQBHOUSEに入った。

地下道を通って、新宿ワシントンホテルに出た。
そこで思いついて、1000円散髪のQBHOUSEに入った。
写真は、新宿ワシントンホテルの地下1階の
QBHOUSEの入口を17時、撮ったもの。
ここのところ、散髪はここでしている。

野村不動産西新宿ビルで小雨が降ってきた。それで青梅街道から甲州街道側まで行くのに地下道を通った。

野村不動産西新宿ビルで小雨が降ってきた。
それで青梅街道から甲州街道側まで行くのに地下道を通った。
写真は、青梅街道から都庁に向かう地下道を、撮ったもの。
この地下道は、ギザギザと曲がっているが、
わざと曲げたのか、他の地下埋設物を避けるため曲げたのか。
それは、私には分からない。

野村不動産西新宿ビルから、青梅街道を東側(新宿駅側)を見た。

野村不動産西新宿ビルから、青梅街道の東側(新宿駅側)を見た。
写真は、青梅街道の東側(新宿駅側)を、撮ったもの。
ここは、20年前、2年間強通ったので、懐かしい。
丸の内線「西新宿」駅は、20年前できた。
それまでは、「新宿」駅の次は「中野坂上」だった。

野村不動産西新宿ビルから、南側を見ると、青梅街道越しにアイランドタワーが聳えていた。

野村不動産西新宿ビルから、南側を見ると、
青梅街道越しにアイランドタワーが聳えていた。
写真は、青梅街道越しにアイランドタワーを、撮ったもの。
このアイランドタワーが、20年前に建ったとき、
私はこの近所の、NTTグループ会社に勤めていた。
それで、そのとき新築のこのビルに、良く昼食のため来た。


丸ノ内線「西新宿」駅の上に立つ野村不動産西新宿ビルに行った。ドラッカーがテーマのセミナーを受けるため。

丸ノ内線「西新宿」駅の上に立つ野村不動産西新宿ビルに行った。
ドラッカーがテーマのセミナーを受けるため。
写真は、野村不動産西新宿ビルの1階の壁を、撮ったもの。
セミナーは14時から16時半だったが、
用事があって遅れ、着いたのは16時半になってしまった。

それで、教室の人が、9月21日(水)に延期してくれた。
野村不動産西新宿ビルは、懐かしいビルだ。
建て替え前のケイタツビルに、17年前から何度も来た。
光英システムが、このビルにいたからだ。
13年前からは、1月1日毎年来ていた。

そこで、私が本で世話になったドラッカーのセミナーがあるという。
すぐ、申し込んだ。
しかし、タイミングが悪かった。
今、別な場所にいる光英システムで、用事が出来た。
用事が終わって駆けつけたが、セミナーの終わりの時間だった。



2016年8月29日月曜日

NTT東日本本社ビルに、私のNTT時代の知人が7月から転勤してきたので、会いに行った。

NTT東日本本社ビルに、私のNTT時代の知人が
7月から転勤してきたので、会いに行った。
写真は、NTT東日本本社ビルを、
山手通りから南東を向いて、撮ったもの。
用事もないのに、ただ行った。

14時30分から、15時という約束でいったが、
終わったら15時10分になっていた。
私のNTT時代、上司のところに来る人が、時間が
長引いて帰ると、説明で待っている私は迷惑をした。
同じことをやってしまった。
応接室を出ると、説明で待っている人がいた。

新宿NSビルの銀行ATMに、お金の振り込みに行った。1階の広場には、大きなアート作品が展示してあった。

新宿NSビルの銀行ATMに、お金の振り込みに行った。
1階の広場には、大きなアート作品が展示してあった。
写真は、展示していた赤い大きなアート作品を、撮ったもの。
新宿クリエータズフェスタで、西新宿エリアの街路、
ビル広場のあちこちに、アート作品を展示しているらしい。

2016年8月28日日曜日

21時10分、オペラシティビルを出ると、道路が雨に濡れていた。雨はやんだのか、降っていなかった。

21時10分、オペラシティビルを出ると、
道路が雨に濡れていた。
雨はもうやんだのか、降っていなかった。
写真は、山手通り「西新宿四丁目交差点」から
水道通りに入って、新宿駅に向かって、撮ったもの。

TEXASで夕食を終えて、Cafe Jrでコーヒを飲んだ。ルトワックの本「中国4.0」を読みながら。

TEXASで夕食を終えて、Cafe Jrでコーヒを飲んだ。
ルトワックの本「中国4.0」を読みながら。
写真は、Cafe Jrでコーヒを、撮ったもの。
後ろの店は、ライフスタイル・ストア「one's」。
コーヒの左側にある本が、ルトワックの「中国4.0」。

オペラシティ地下1階のTEXASで、ステーキセットを頼んだ。160gのステーキセットで1100円と安い。

オペラシティ地下1階のTEXASで、ステーキセットを頼んだ。
160gのステーキセットで1100円と安い。
写真は、出て来たステーキセットを、撮ったもの。
セットを持って来た接客の若い中国人女性に、
「出身地はどこ」と聞こうと思って、聞きそこなった。

それで、食べたお金を払うとき、
「いつも笑顔で、いいですね」と言った。
そしたら、笑顔が返って来た。
あ、別に女好きではなくて、「接客の女性に声をかけろ」
という人がいて、それを実行しているだけ。


今日(8月28日)18時20分、夕食にオペラシティに行った。今日も地下1階のTEXASに入った。

今日(8月28日)18時20分、夕食にオペラシティに行った。
今日も地下1階のTEXASに入った。
写真は、山手通り「西新宿四丁目」側から
オペラシティに入って、南側を向いて、撮ったもの。
「日曜の夕方でも、ここに来ると人がいていいな」、と思った。


養老孟司さんの書いた、「日本のリアル」を読んで、読書感想を書きました。

養老孟司さんの書いた、「日本のリアル」を読んで、

2012年8月、私は下の通り、読書感想を書きました。

写真は、本の表紙を、撮ったものです。



++++++++
読書感想文(日本のリアル・・・養老孟司)
 
養老孟司さんは、1937年に鎌倉で生まれ、
<東大医学部に行きました。
<解剖学を専攻し、博士課程を修了、
<そのまま東大の先生になっています。
 
2003年に出版した「バカの壁」が、
<その年のベストセラーになって有名になりました。
1995年東大退官後は、
<北里大学教授等を勤め、現在はそこもやめ、
<代々木ゼミナールの顧問などをしています
 
養老孟司さんは、1937年に鎌倉で生まれました。
4歳のとき父を結核で亡くし、
それ以来小児科医の母親の手で育てられています。
1945年の敗戦により、日本及び日本人のものの見方が、
180度変わるのを、小学2年生で体験しました。
 
それ以来、養老孟司さんは
世間の言う常識に対して懐疑的になっています。
 
こういう価値観の激変
(人が一生かかってもこなしきれない、激変ですね。
私は団塊の世代として、
これに翻弄された日本の渦中にいましたが、
皆それぞれの激変への対処をしていると思います)は、
日本の近世では2回目だったとか。
 
1回目は明治維新のときですね。
「脱亜入欧」で、
それまでの江戸時代の価値観は、古いとされました。
これに小さいときに遭遇したのが、北里柴三郎さんたちで、
北里さんたちは、菌の世界には嘘はないとして、
医学の世界に猛進したのであろうと言っています。
 
小さいときに、鎌倉昆虫同友会を組織し会長を務め、
テレビやラジオからも取材も受けました。
栄光学園で中学・高校を過ごし、
大学は東大医学部に行っています。
 
1年間のインターンを経て、
東大大学院基礎医学科で解剖学を専攻し、
1967年医学博士になりました。
そして、そのまま東大の先生になっています。
 
1968年から1969年に盛んであった、全学連の騒動で、
養老孟司さんの研究室も全学連に押し入られ、
「こんな一大事に、研究なんかしている場合か」といわれ、
研究室を追い出されました。
 
養老孟司さんは、
それ以来「学問とは何か」「研究とはなにか」
「学校とは何か」を考え続けており、
今も「私のなかでの紛争は終わっていない」としています。
 
世間に向けた執筆活動では、
一般的な心の問題や社会現象を
脳科学、解剖学をはじめとした
医学・生物学領域の雑多な知識を交えながら
解説していることで、多くの読者を得ました。
 
1989年、50歳のときには、
「からだの見方」でサントリー学芸賞を受賞しています。
65歳のときの2003年に出版した「バカの壁」は、
その年のベストセラーになって、
このときから養老孟司さんは、全国区で有名になりました。
テレビ出演や講演会なども、積極的にこなしています。
 
漫画の「画とセリフ」の関係が
日本語での「漢字とルビ」の関係と似ていることを
脳科学の観点から述べて来ました。
 
そして、『マンガをもっと読みなさい 
日本人の脳はすばらしい』
(牧野圭一との共著)も出しています。
そのなかでマンガは「脳機能をフル回転させる」という、
漫画の長所を強調しました。
 
京都国際マンガミュージアムの初代館長でもあります。
そしてマンガから視点は変わりますが、
現代の若者対する生き方のアドバイスとして、
現実的で面白いことを言ってきました。
 
曰く「自分探しなんてやめろ」
「身体を使え」
「努力・辛抱・根性」
「自分の世界観が変わることに勇気を持ち、
それを楽しめ」
 
100年たっても無くならないような、
人間の生活に密着した普遍的な職業を選べ」
「教養とは他人の心が分ることだ」。
言っている内容は、具体的です。
養老孟司さんの経験に基づく、意見なのでしょう。
 
東大で東京大学綜合史料館館長、
東京大学出版会理事長を歴任したあと、
1995年東大を退官しました。
東大退官後は、北里大学教授等を勤め、現在はそこもやめ、
代々木ゼミナールの顧問などをしています。
 
そのほか、農林省食料・農業・農村政策審議会委員、
日本ゲーム大賞選考委員会委員長、
「ひとと動物のかかわり研究会」理事長も勤めました。
また、朝日賞、小林秀雄賞、司馬遼太郎賞、
毎日出版文化賞、山本七平賞の選考委員を務めています。
 
++++++++
<この本との出会い>
 
私が有名な養老孟司さんのお顔を写真で拝見したとき、
こういう“やんちゃ坊主”みたいな顔は嫌いだと思いました。
それでつい最近まで、この人の本は読んでいなかったのです。

しかし1~2年前、図書館に行ったら、
私がときどき読む大活字本に、
養老孟司さんの「バカの壁」がありました。
 
有名な「バカの壁」ぐらいは、
読んでおかなければならないな、と急に思います。
そして読んだら、これがベストセラーになるだけあって、
面白かったのです。
 
なるほど、養老孟司さんは小さいとき昆虫少年で、
拘りのある人生を送ってきたのだなと思いました。
私など長くサラリーマン生活を送ってきて、
人生が楽に送れるならそれが良いと、
凄く妥協的でいい加減な体(たい)裁きをして来ています。
 
だから、こういう拘りのある人から、
これから学ぼうと思いました。
それにこの人の言い方の、
分りやすく易しかったことも、
私からみて魅力になっています。
 
そういうなかで、本屋でこの本を見たのです。
食、農業、漁業、林業、それぞれの現場で
一生懸命やってきた人、4人との対談でした。
そして本の中味を眺めたら、面白そうです。
養老孟司さんと、感動する人達との話と思いました。
 
なるほどこの人達と、
養老孟司さんの考え方が意見交換されると、
良いものがかもし出させると思います。
それで、買って読みました。
やっぱり、読んで良かったと思いました。
 
++++++++
<この本の構成>
 
この本に書いてあることは、次の通りです。
( )内はページ数です。
 
-第1章 現代人の日常には、現実がない 
養老孟司×岩村暢子(33ページ)
-第2章 田んぼには肥料も農薬もいらない 
養老孟司×岩澤信夫(48ページ)
 
-第3章 山と川に手を入れれば、漁業は復活する 
養老孟司×畠山重篤(40ページ)
-第4章 「林学がない国」の森林を救う 
養老孟司×鋸谷 茂(50ページ)
 
この本を読んで、養老孟司さんの
食、農業、漁業、林業への問題意識の強さを感じました。
 
第1章からは、日本の家族の文化論・現実論が読めます。
この章からは戦後、日本人の価値観が変遷してきたのを、
食の面からとらえていて、
さらに食から見える人間の価値観に妙に広がりを感じました。
そして、きれいごとを言っていても現実は、
こうだというのが分ります。
 
第2章~第4章は、対談相手がどの人も凄いのに、
ビックリしました。
読めばどの人の言うことも、
普通を越えていて、しかもその通りと思えるのです。
日本全体、この方向に舵をきれば良いのではと思いました。
 
こういう人をピックアップできる、
養老孟司さんの経験の広さ、
見識の深さを感じました。
どの人も夢をもって、現実にやっている人ばかりです。
 
この本を読んで、ガイア理論を思い出しました。
今はなきロケット博士の糸川英夫さんが、
天才ラブロックといった、
ラブロックが作った仮説ですね。
 
ガイアはギリシャ神話に出てくる地母神のことですが、
ラブロックはガイアで地球のことをさしていて、
地球は(いろいろなものが関係しあい)
総合的に生きていると言っていました。
 
私はこの意味のガイアに、
沢山インスピレーションを受けていると思いますが、
まったくこの本は、
その私のインスピレーションを補強してくれます。
 
第1章は、ガイア理論とは別な、
戦後の日本の文化論との感想を持ちました。
しかし、2章~4章はまさしく
ガイアの理論の、私から見たときの補強です。
読んでいて私は、血沸き肉踊りました。
 
私にはこういうことに、魅かれる性向があるのだと思います。

私の最後のこの世へのご奉公
(もう少しの時間だと思いますので)を、
この3つの章の人の誰かに捧げても良いのでは
ないかと思うほどでした。
 
+++++++++
<第1章 現代人の日常には、現実がない 
<養老孟司×岩村暢子
 
岩村暢子さんは1953年北海道生まれで、
アサツー デイ・ケイ200xファミリーデザイン室室長
をしています。
1998年から毎年、「食DRIVE」という
調査をしてきました。
 
「食DRIVE」は、
1960年以降生まれた子供たちや、
岩村さんからみれば先輩にあたるその親達に、
3ステップに渡る調査をして、
その結果をまとめたものです。
 
第1ステップで、食のアンケートをまとめました
(調査対象者が言っていることを調べた)。
第2ステップで、食事の写真と食事の背景の記録をとります
(調査対象者がやっていることを調べた)。
 
第3ステップで、第1スッテプと第2ステップを見て、
岩村さんとお母さんがデスカッションします
(言っていることと、やっていることの突合せ分析)。
 
「食DRIVE」の調査内容を見たとき、
私は岩村さんをイヤな女と思いました。
「人のプライバシーに手を突っ込んで、それをあらわにした」
と思ったのです。
 
「人生はオブラートに包んで、
美しく見せておけば幸せじゃない」と思いました。
そう思って抵抗があったから、
この章だけ私は読むのに、時間を沢山必要としています。
 
そうでありながらも、
これだけ調べて冷静に見ていますから、
私の生活を振り返っても、
言うことが当たっていることが多いのに感心しました。
 
私の人生は、特殊な人生だったと思っています。
そんな私の特殊な生活を、
一般論で語れるわけがないと思っていました。
人から見たらそんなことないと見えると思いますが、
多分私にはトラウマが多くて、
変わった人生を歩いて来たと思います。
 
その迷惑を多く受けたのは、
小さいときは私の姉(両親もそうかな)で、
今は私の女房なのでしょうが。
しかし岩村さんの話を、読んだら思います。
 
「どの人も特殊なのだ。
それを受けた食生活も、どの人も特殊なのだ」と思いました。
人は自分の向上を目指して、自分のある考え方を捨てて、
他のところで有意義なことをしようとして努力する、
それぞれの特殊な人生を送っています。
しかしその捨てたものは、
それぞれの食文化にも影響していました。
 
私たち団塊の世代は、終戦後すぐの物不足の時代に生まれ、
団塊の世代のほとんどがハングリーの中に育っています。
私たちの世代に共通しているのは、
食のハングリーに対する恐怖心であり、
そこからの脱出が私たちの価値観の太い柱になってきました。
 
だから私たちは食の確保(質よりも量志向)が、
私たちの価値観のベースにあり、
それが先祖から受け継がれて来た私たちの食文化に、
影響をあたえていると思います。
 
67年前の敗戦には、
それぞれがそれぞれの年代でぶちあたりました。
「食DRIVE」は1960年以降生まれの子どもたちと、
その親たちの世代を対象としています。
 
つまりその対象となっている親と同世代の、
養老さんは小学2年生で敗戦にぶち当たりました。
小学生は最も多感な時代ですから、
敗戦にぶち当たった年齢によって、
敗戦の感じ方は違うと思います。
 
そしてその時代の人を親に持つ子ども達が、
育って今日本を動かし始めました。
その親の世代の価値観が、食文化に反映され、
その食文化がその子どもたちの世代の価値観に
影響を持って来たことを知って、
「食は、あだや疎かにすべからず」と改めて私は思います。
 
岩村さんは、「食DRIVE」の調査を通じて
3冊の本を書きましたが、
養老さんはその3冊を読んで、ショックを受けました。
食の形の変化から見える、私たちの価値観の変遷は、
戦後の日本を「ぐうの音も出ないほど」正しくとらえて、
あまりにも鋭かったからです。
 
3冊のタイトルは、次のものでした。
「変わる家族、変わる食卓」
「親の顔が見てみたい → <現代家族>の誕生」
「普通の家族が一番怖い」。
 
それは一言で言うと、
敗戦時の価値観の急激な変更にあった養老さんの世代が、
自分の親たちのそれまでの価値観に自信を持てなくなって、
自分達の価値観を曖昧なものにせざるを得なかったが、
それが日本の家庭の
食の形の変化につながって行ったと言うものです。
 
事実でとらえると、
調査対象者の言っていたことの嘘も分りました。
がそんなことより、今「日本社会は変化のなかで、
自分の立ち位置を決められないでいる」、
「揺れている」のが、もっと本質的と思いました。
 
これから、だから日本人は自分達の価値観を、
これまでの古くから培ってきた日本の文化も踏まえ、
新たに創造していかなければならないと思います。
そのためには、より本質的に日本を考えなければ、
ならないのだろうと思いました。
 
私が養老さんの言葉で、もっともショックを受けたのは、
環境という言葉に対する理解です。
それだけを、この章から次に引用してみました。
なるほど、「はじめに言葉ありき」だなと思います。
 
そして佐藤優さんが言って、
私がまだ分からないでいる
「実念論」のことを思い出しました。
 
――いや、最近言うのですが、環境省ができたことで、
「自己」が政府公認になったのですよ。 
そもそも実体としての「環境」など存在しません。
本来、環境とは「自分の周り」のことであり、
もっと正しく言えば「自分そのもの」なんです。・・・
 
江戸時代の人は誰も「環境」など語らなかったはずです。
我々は土から貰ったものを食べて、土に返している。
だから田んぼは自分自身だし、
田んぼを大事にするのは
自分を大事にすることと同じでした。
 
同様に、魚を食べるのは海を食べることでしたから、
海も「環境」ではなく、自分自身でした。・・・
「環境」を立てた裏に出てきたのは、
そこから切り離された「自己」です。
本当は世界と自分はつながっていて当たり前なのに、
「環境」と言った途端、「自己」が発生してしまう。
 
政府が「環境省」を作って
自己を公認したとはそういうことです。
だから「自分探し」が始まったのでしょうし、
ミーフェチになったのも当然ですね。
 
++++++++
<第2章 田んぼには肥料も農薬もいらない 
<養老孟司×岩澤信夫
 
岩澤さんは、1932年に千葉県成田市に生まれました。
高校を卒業して、家業の農業を継ぎますが、
私は岩澤さんをチャレンジャーだと思います。
スイカを成田でも早く作れるようにして、
市場で高い値段で売れるようにしました。
 
でもここで語られていることは、
岩澤さんにとってスイカの先にあった、米作りです。
それこそ日本中を駆け回り、
見ていろいろな人の話を聞きました。
 
また、宮城県田尻町長から相談されて、
グリンツーリズムを成功させるため、
マガンを冬季に呼ぶように使ってない田んぼに水をはります。
そしたら、マガンが来るようになったことと一緒に、
糸ミミズが大発生して、
他の生物も増えるし、田んぼのドロの栄養も増えました。
 
この2つの経験から、岩澤さんは、
1つめに不耕起栽培をやり始めます。
不耕起栽培では、田んぼを耕さないのですが、
そのため労働力は減りました。
但し苗の作り方には工夫がいります。
 
また、不耕起ですから去年の稲の切り株が残りますから、
土は固くて苗も植えるところが限られているので、
耕運機に工夫がいりました。
が、これも耕運機メーカの協力もあり、開発します。
 
そしてこうして育てられる稲は、
固い土でも根をはり丈夫なのでした。
だから、そばの田んぼで稲が育たなかった、
冷害のときでも、
ここの田んぼは見事に稲を稔らせました。
 
2つ目に冬でも田んぼに水をはります。
これは田んぼを、
糸ミミズの大発生で結果的に栄養を増やすためでした。
だから、肥料も農薬もいらなくなります。
私などこの方法で、
農業を再生すればいいではないかと思いました。
 
が、すると既得権益者である、
肥料や農薬を売る農協が困るそうです。
だから、どんな新しい方法にも障害はありました。
しかし第3者の私など、「ああ、こういう方法があるならいいな」
と、血沸き、肉踊る感じで読みます。
対談を読み終わって幸せな気持ちになりました。
 
++++++++
<第3章 山と川に手を入れれば、漁業は復活する 
<養老孟司×畠山重篤
 
畠山さんは1943中国上海で生まれました。
そして日本に戻って、
父親と一緒に宮城県気仙沼で、カキの養殖を始めます。
 
東日本大震災の影響で、
ほとんどの筏等カキ生産設備や、
種カキが買えずに困っていたときに、
フランスの料理組合が手を差し伸べてくれで、
それでカキの養殖を再開しているとか。
 
日本政府のやることは、
細かい決まりごとがあったりして、遅いのですね。
フランスで使うカキの種カキのもとは、
1971年以来の宮城県からフランスにもっていった
種カキでした。
 
それで「宮城県を救え」という運動が、
フランスの料理組合で起こったのです。
1971年以前、使っていたポルトガルの種カキが
病気で輸入禁止になったとき、
それを救ったのが、宮城県産の種カキでした。
 
そういう縁です。
畠山さん父親の話によると、
津波のあとのカキの成長は普通の年の倍早くなるとか。
実際もそうなって、
2012年のカキは成長が早かったそうです。
 
畠山さんは「森は海の恋人」運動で有名になりました。
海を良くするためには、そこの海に流れ込む川、
川の周りの山の森を大事にしなければいけない
ということで、漁業者なのに山に木を植えています。
 
それが功を奏して、今、宮城県の海のカキの
生産量、カキの育ちもよくなりました。
「山は海の恋人」運動のキッカケは、
1984年のフランスのカキの研究者の招待です。
 
だんだんカキの生産量が減っていた、
宮城県気仙沼で悩んでいたとき、
フランスに行ってフランスのカキ生産が多いのは、
海に流れ込む川、
その周りにある森が良いからだと気がついたのでした。
 
森の落葉樹に含まれる、
生物が吸収しやすいフレボノ酸鉄が原因です。
それから漁業者が、気仙沼湾に流れ込む川の
周囲の森を買って、木を植え始めました。
 
これは、気仙沼の地元の歌人の歌の一節
「森は海の恋人」というフレーズで、
日本中で一気に有名になります。
山、川、海が助け合ってお互いがよくなるなんて、
私はガイア理論を思い出しました。
 
畠山さんも、生態系を総合的に考えなければと言っています。
長良川堰の反対運動は、結局挫折しましたが、
アプローチに総合的生態系の発想が、
なかったので失敗したのだろうと、
畠山さんは言っていました。
 
++++++++
<第4章 「林学がない国」の森林を救う 
<養老孟司×鋸谷 茂
 
鋸谷さんは、1953年福井県に生まれ、
自分の家の山林を10代のときから管理しています。
そして福井県に奉職し、2009年にやめる
(福井県もお役所ですから、
55歳になると管理職はやめるのですね)まで、
林野の仕事をしてきました。
 
その間、ズーっと山を
経済的にどう保全するかを考えています。
山を保全するためには、
間伐と山への道を作ることにコストがかかっていました。
それを経済的にやる方法を鋸谷さんは、考えてきたのです。
 
たとえば、間伐の方法としては、
「巻き枯らし間伐」を考えて実行しました。
どういう方法かというと、
間伐対象の木の幹の周囲にグルっと、
切り込みを入れて木の形成層をなくします。
 
するとその木は、
10年後ぐらいから立ち枯れを始めました。
しかも、枯れるまでの間、木はありますから、
ほかの木を守りますし、
立ち枯れしたあと森林に栄養を与えます。
 
どの木を間伐したらいいか、
森をみる人に聞くと、
ほとんど鋸谷さんの考えと一緒だったとのこと。
多分、人間が好き嫌いで選ぶことには、
無意識のうちに正しさがあるのです。
 
間伐すべき木の密度は、
胸の高さの面積比で空間の1/200が最適とのこと。
 
果樹園をする人に、
果樹園の木の最適な密度はどれぐらいですか、
と聞いたらさっさと計算して、
200倍の空間が必要ですといったとのことですから、
果樹園も森林も木の最適密度は一緒ですね。
 
鋸谷さんはこの木の密度に注目し、
この密度で間伐の程度を判断して来ました。
山への道をつくることでは、
今の補助金の制度がいけないと、鋸谷さんは言っています。
 
間伐した本数が、補助金の枠を決めているので、
不必要なところにも道を作って来てしました。
鋸谷さんは2010年、
「森と木の研究所」を立上、現場目線で
日本の「林学」をつくるため、研究を始めています。
 
なにか2~4章の養老さんの対談相手は、
夢のあるしかし、農林水産業の宿命で、
長期的な取組みにチャレンジしている人達だと思いました。
これを読むと、
日本の底力も捨てたものではないと思います。