2015年10月28日水曜日

今日の朝、西新宿の空は、雲一つない晴れだった。

今日の朝、西新宿の空は、雲一つない晴れだった。
写真は、8時30分、部屋のベランダから
東北方面を、撮ったもの。
上空は、雲一つない青だった。
下の手前のビルは、マンションの隣の診療所。

左端の高いビルは、住友不動産西新宿ビル6号館。
右端の高いビルは、新宿パークタワー。
その谷間に見えるのは、
住友不動産ビルの右側に見えるのが、都庁第一庁舎。
真ん中に、少し低く見えるのが、都庁第二庁舎。

2015年10月27日火曜日

金谷治さんの書いた、「孫子」を読んで、読書感想を書きました。

金谷治さんの書いた、「孫子」を読んで、
2011年10月、私は下の通り、読書感想を書きました。
写真は、本の表紙を、撮ったもの。
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読書感想文(孫子・・・金谷治)
 
金谷治さんは、1920年三重県伊賀市に生まれ、
<東北大学に行って、東北大学で教えた日本の東洋学者です。
<2006年に亡くなりました。
 
金谷治さんのことは、私は詳しくは知りません。
しかしウィキペディアで見ると、
中国の古い時代の書については網羅的に
訳本、解説本などを書いており、その仕事等を通じて
中国の歴史に詳しい東洋学者になったのだと思います。
 
私が雑然と金谷治さんの本に書かれた対象を拾ってみても、
孫子のほか、易、論語(儒教)、老荘(道教)、
菅子、諸子百家などがありました。
広く古代中国の文化について、
造詣が深いのだと思います。
 
またキャリアを見れば、学生以降は、
大学等で先生をやりつづけ、86歳で亡くなりましたが、
典型的な学者人生を送ったように私には見えました。
この本は岩波文庫ですが、1963年、
金谷治さんが43歳のとき書いたのですね。
 
私が最初にこの本を読んだのは1970年ですから、
そのときも随分本が発行されてから、
たっていたのが分かりました。
 
私は孫子になんとなくあこがれていたのだと思います。
最初にこの本を手にしたのが1970年。
私が、電話局にいたときです。
本当は本の内容を理解できなかった私は、
その漢文を写しました。
 
そして多分、名文が書いてあるとは理解できましたが、
孫子の中味は理解できませんでした。
その後何回か、孫子を読んでいますが、
この本も確か2000年に改訂版が新しく出たのを見て、
買ってみたのです。
 
そして、このときビックリしたのは、
この「孫子」が魏武注孫子を
ベースとして書かれていたことでした。
魏武は、三国志に出てくる曹操のことです。
 
三国志演戯では、諸葛孔明の親分である
「蜀」の劉備が善人で、
「魏」の曹操は悪役で出てきました。
しかし、本当の曹操は智の人でもあったのが、
この「孫子」本から分かります。
 
それにこの「魏」は魏志倭人伝の「魏」ですね。
話は別なほうに行ってしまいますが、
孫権が率いる「呉」も、
歴史的に呉の人が日本に大勢来るなど、
日本とは古くから関係してきました。
 
そういう意味では、
紀元3世紀初頭三国で争われた三国志の物語も、
日本と関係が深いことが分かります。
 
そして2000年頃この本を再度買って読んだとき、
「孫子」全体を1970年頃に読んだときより、
少しは理解できるようになりましたが、
体験的理解ではないので、
まったく浅く理解したのでしょう。
 
「良い本は何回も読んで」という言葉に
後押しされるように、
また本棚から引っ張り出して
読んでみることにしたのです。
 
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<孫武、孫
 
「孫子」は、小さいときの私が知っているほど有名でした。
「敵を知り、己を知れば百戦して危うからず」も、
「孫子」の一節です。
武田信玄が旗印にした「風林火山」も
「孫子」から採ったものです。
 
「孫子」は日本にはなじみの深いものでしたし、
日本で戦争をした人たちは「孫子」を、
戦国大名たちを中心に読んできました。
 
一方、最近は「孫子」は
経営と結び付けられて語られることも多く、
本屋に行くと経営の本としても
並んでいるのが見られます。
 
「孫子」を書いた孫武は、軍事学の研究において
戦略、戦術、情報など幅広い領域で業績を残しています。
そこには、「戦わずして敵を屈する」という戦略思想、
戦闘での防勢主義と短期決戦
そして諜報活動の考察などの成果が挙げられるのでしょう。
 
「孫子」は今も通用する戦争論で、
紀元前5世紀に戦争を科学的に分析して
この本をなしたのは驚異です。
またその文章は格調が高く、世界の戦争論のなかでも、
今も多分ヨーロッパも含めて世界一でしょう。
 
「孫子」は孫武によって書かれました。
孫武は紀元前6世紀に生まれ、
紀元前5世紀に亡くなっています。
 
孫武は「斉」の人で、お祖父さんは
田氏の別れといいますから、太公望が作り、
菅仲を使ったことでも名高い桓公などで有名な
「斉」を、簒奪した田氏の一族なのですね。
 
政変で陳から逃れてきた陳の公子が
斉の桓公に取り立てられて田氏を名乗りましたが、
太公望、桓公の斉は、田氏にずっと後年簒奪されましたから、
後の春秋戦国時代の斉は田氏の斉です)。
 
孫武は、一族の内紛で、斉を逃れ、呉に逃れてきたようです。
その当時の呉は、
楚から逃れてきた伍子胥が宰相としておりました。
この伍子胥に認められた孫武は、
呉の将軍に出世しています。
 
そして、この孫武が率いる呉軍は強く、
結局当時中国で最強だった楚を破り、
また「呉越同舟」で名高い、
呉のライバル越も破って、中国の覇者となりました。
 
しかし、孫武を引きたててくれた伍子胥とともに、
讒言され失脚しています。
それからの呉は、「越」王勾践に滅ぼされました。
 
は戦国期末、紀元前3世紀ぐらいの軍師です。
この人は有名で、宮城谷昌光の「孟嘗君」に出てきました。
は足きりの刑を受けた人を言います。
は孫武の子孫に当たりますが、
このときは中国・山東省の「斉」にいました。
 
の軍師として優れているのをねたんだ、
龐涓が讒言したために刑にあったのです。
その智謀は私達をビックリさせますが、
孫武の子孫にあたるこの人が、
孫子を書いたのではないかと言われていました。
 
しかし、1972年に発見された、
銀雀山漢墓からの兵法が出てきて、
の時代には「孫氏」があったことが分かります。
それで「孫子」は、
やはり孫武が書いたというようになりました。
 
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<この本の構成>
 
この本の構成は、次の通りです。
( )内は説明されているページ数です。
章は私が勝手に、この本の前書きで言っていることを
下敷きにして書きました。
 
解説 (16ページ)
1章.総説
計 篇(第一)(10ページ)
作戦篇(第二)(9ページ)
謀攻篇(第三)(10ページ)
 
第2章、戦術原論
形 篇(第四)(9ページ)
勢 篇(第五)(11ページ)
虚実篇(第六)(15ページ)
 
第3章 戦術
軍争篇(第七)(12ページ)
九変篇(第八)(10ページ)
行軍篇(第九)(18ページ)
地形篇(第十)(15ページ)
九地篇(第十一)(24ページ)
 
第4章 特別
火攻篇(第十一)(8ページ)
用間篇(第八)(14ページ)
付録 孫子伝(9ページ)
 
本を読んで、金谷治さんの勉強振りに敬服しました。
骨格は孫武が作ったと思います。
 
しかし孫子は中国の古典の例にもれず、
2500年という長い期間、
大勢の人によって注が書き加えられ、
その結果、孫子の全貌を
正確に知ることは困難になっています。
 
それを金谷治さん流の緻密な追跡で、この本を仕上げました。
そういう本を私達は、いとも当然のように
読むことができるのですから、幸せだと思います。
学者がこういう仕事をするのは、
素晴らしいなと思いながら。
 
その解説を読んだだけで、
そのボリュームの多さに圧倒されます。
そして、この岩波文庫を書くことは
大変だったのだろうと思いました。
 
孫子は薄い冊子ですが、
書くとなると真剣勝負になるのでしょう。
それこそ2500年生き抜いて来た、冊子です。
誰からも文句を言われないように
書くのは大変だったと思いました。
 
解説を読んだだけで、
その金谷治さんの思いが伝わってきます。
 
余計な私の説明を書くより、
この本を分かりやすく説明している、
この本の表紙にかかれている言葉を引用します。
 
――孫子13編は、中国最初の兵書である。
そこには現実的な戦術が深い思想的裏づけを得て、
人生の問題として、広い視野の中で組み込まれている。
 
竹簡の新資料との照合も経て、
またさらに読みやすくなった改訂版。
原文・読み下し文、現代語訳に
平易な注を加え、巻末には重要語句を付した。
 
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<孫子を読みましたが、今回も分かりませんでした>
 
この本の構成の主役が私の苦手な漢文なので、
今回も読むのには苦労しました。
でも、これを理解するのは
私には不可能と悟っていましたので、
あまり気にもなりません。
分かるまで繰り返し読もうと思っています。
 
金谷治さんの解説がいいので、これに、今回も救われました。
読む価値のある本、
それだけが私のこの本を読む動機になっています。
不思議に40年前からときどき
思い出したように読んでいますが、
読み始めてよかったと思いました。
 
「孫子曰く、兵者国之大事、
死生之地、存亡之道、不可不察也・・・」
(孫子はいう、戦争とは国家の大事である、
国民の死活がきまるところで、
国家の存亡の分かれ道であるから、
よくよく熟慮しなければならない・・・)で始まる
孫子は、読んだ私を粛然とさせます。
 
これがプロと言うものなのでしょう。
簡にして要。
こんな文章、私には書けないと思います。
歴史上には凄い人たちが、たくさんいたと思いました。
老子、孔子、そしてこの孫子。
 
みな紀元前5、6世紀の同じ頃の人ですね。
何故か、「大道廃れて仁義あり」を思い出しました。
よきものは、大道が廃れたときに現れるというものです。
中国のあの時代、諸侯は戦争ばかりしていましたから、
「孫子」は必要だったのだと思いました。
 
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<付録に孫武、孫を書いた、史記を引用していました。
 
孫武、孫の二人を
「史記」を書いた司馬遷が書いてくれたので、
私もお二人のことを子供の頃聞いていたので、
ボンヤリとですが知っていました。
それが、この付録には引用されています。
 
孫武と呉王との最初の出会いのころのことですが、
呉王の闔閭に問われて、王の後宮の女性達を使って、
彼らを良い兵隊・軍隊に仕上げます。
しかし、このとき王の愛姫を二人殺しました。
 
私は昔、この話を聞くたびに、
「王の愛姫を二人殺す」なんて残酷。
忘れたいのに何故聞かせるのと思っていました。
しかし今回は、実際これはあったのかも知れないと、
真剣に読んでいます。
 
そうです。
「孫子曰く、兵者国之大事、
死生之地、存亡之道、不可不察也・・・」が戦争なのです。
笑いながらするものではないのです。
私達も知らぬ間に、この社会で、
修羅場に入って行っているのです。
 
今まで避けていた物語を、
今回ほど素直に読めたのはありませんでした。
そうなのです、私達の生活には
「波乱万丈」が沢山あって、
それらと全員が格闘しているのだと思います。
 
は「斉」の軍師となっています。
そして敵は、「魏」の国(曹操の魏とは無関係です。
そのずーっと前です)の将軍をしていた龐涓でした。
 
「斉」は、「魏」の国の謀略にひっかかったように見せて、
竈の数を日にちが経つごとにだんだん減らしていくのです
(「斉」の兵士が敵地に来て、おじけづいて兵の数が、
だんだん減ったようにみせたのです)。
 
そして、「魏」の国の軍隊が戻って来たとき、
隘路で待っていたは、宿敵「龐涓」を
龐涓死于此樹之下龐涓この樹の下にて死せん)」
と言って、魏の国の軍隊を打ち破りました。
 
龐涓は「遂成豎子之名
(遂に豎子の名を成さしむ)」と言い残して
自刎します。
 
こんな夢のような、戦争があったのだろうかと思いますが、
いつもが完勝したこの「馬陵の戦い」を思い出します。
「鳳翼天翔」のように、戦争を眺めていた人がいるのですね。
上には上がいる。そう思って人生を生きよう。
この人の兵法からは、いつもそう思います。