2015年5月31日日曜日

プールを上がって血圧を、測った。

プールを上がって血圧を、測った。
写真は、受付の隣にある血圧計を、撮ったもの。
体重は、74、5kg。
血圧は、(上)が125、(下)が75。
血圧は、私にしては安定している。

プールで6往復(300m)泳いだ。

プールで6往復(300m)泳いだ。
泳ぐ距離は短くなったけど、私の高血圧
対策には、これだけ泳げば、十分。
もう毎週泳ぎ始めて、35年以上。
昔は、30往復(1500m)泳いでいたけど。

写真は、プールの更衣室を、撮ったもの。
写真の右下に見えるのは、体重計。
真ん中、少し左に見えるのは、水着と
水泳帽の、脱水機。

中幡小学校に行ったら、運動会をやっていた。

中幡小学校に行ったら、運動会をやっていた。
運動会は、人をうきうきさせる。
写真は、運動会を入口から、撮ったもの。
大勢の人がいた。

中幡小学校のそばで、不動通をそれて、公園を歩いた。

中幡小学校のそばで、不動通をそれて、公園を歩いた。
写真は、もう花が咲いていない公園の桜を、撮ったもの。
桜の花の時期は、綺麗なのだろうなと、思った。
来年は、桜の花の時期に来てみよう。

プールい行く不動通りに入って、振り返ってみたら、新宿パークタワーが真ん中にいた。

プールい行く不動通りに入って、振り返ってみたら、
新宿パークタワーが真ん中にいた。
写真は、不動通りに入ってすぐ、不動通りで
東側を向いて、撮ったもの。

写真真ん中の向こう、山手通りの上を通る
首都高の上に、新宿パークタワーが小さく見える。。
何か幻想的だった。

昨日(5月30日)、ふどう通りを通って、中幡小学校のプールに行った。

昨日(5月30日)、ふどう通りを通って、
中幡小学校のプールに行った。
写真は、山手通りを過ぎて、ふどう通りに
入るが、山手通りの上の首都高の
側面の蔦を、撮ったもの。


2015年5月30日土曜日

朝風呂に入った。歯を磨き、髯をそり、髪の毛を洗い、体を洗う。その前に、風呂に入りながら、本も読んだ。

朝風呂に入った。
歯を磨き、髯をそり、髪の毛を洗い、体を洗う。
その前に、風呂に入りながら、本も読んだ。
写真は、湯船にお湯をいれるとき、
お風呂の窓際を、撮ったもの。
9時15分に撮った。

写真、窓際下の左側に本が立てかけてある。
これを湯船に、お湯が入ると、湯船につかりながら読む。
本は、「超「右脳人間」塾」。。
ぜひ、暗誦音読してほしい「名文、古文の数々」
という項目があるので、そこを音読する。

湯船に本がつかるといけないので、手に本を持って、
手を出しながら、読んだ。
「名文、古文の数々」が、8つ断片的にあるので、
それらを2回繰り返して読む。
読み終わったら、もた、本を窓際に立てかけた。

そして湯船からあがり、
歯を磨き、髯をそり、髪の毛を洗い、体を洗う。
もう一度、湯船に入った。
お風呂から出て、歯ブラシ、髭剃り剃刀を片付け、
体を拭いて、着替える。

昨晩の雨と、打って変わって、今日は晴れ。私の部屋の東側のベランダに、布団を干した。

昨晩の雨と、打って変わって、今日は晴れ。
私の部屋の東側のベランダに、布団を干した。
写真は、9時15分、干した布団を
ベランダから北側を向いて、撮ったもの。

2015年5月29日金曜日

JR「五反田」駅のプラットホームから、品川方面を見た。

JR「五反田」駅のプラットホームから、品川方面を見た。
写真は、「大崎」液よりのホームから、東側を向いて
品川方面、御殿山方面に向けて、撮ったもの。

JR「五反田の」の駅は、人でいっぱいだった。

JR「五反田の」の駅は、人でいっぱいだった。
写真は、「五反田」の駅で、東北方面から
南西の方角を、撮ったもの。

昨日’5月28日))、病院の帰りにJR{五反田}の駅に出たが、五反田のの駅には、ユニクロがあった。、

昨日’5月28日))、病院の帰りにJR{五反田}の駅に
出たが、五反田のの駅には、ユニクロがあった。
写真は、そのユニクロの店内を、撮ったもの。
店内は、整然としていた。
人は、ほどほどに、入っている。、

昨日(5月28日)、五反田のNTT東日本関東病院に行った。

昨日(5月28日)、五反田の
NTT東日本関東病院に行った。
写真は、病院のなかに入ったところにある、
館内の案内図を、撮ったもの。

昨日(5月29日)、五反田のNTT東日本関東病院に、私の足の不調の原因を探るため、体幹部のMRI検査をしに行った。

昨日(5月29日)、五反田のNTT東日本関東病院に、
私の足の不調の原因を探るため、
体幹部のMRI検査をしに行った。
写真は、東北に向って五反田を100mほど行って、
桜田通りから、左に曲がるところにある
病院の看板を、撮ったもの。

MRI検査は、昨日が3回目。
まず脳の検査を行った。
これは異常なし。
次は、腰のところのMRI検査。
ここでは、脊柱管狭窄症の診断。

たぶん、この2回目の診断結果が、私の足の
不調の原因を指摘しているのだと思うが、
昨日は体幹部も念のために調べた。
もう一回6月1日に、頸椎の検査を行う予定。
それで、全部の脊椎の検査が終わる。

2015年5月28日木曜日

朝一杯の茶を飲んだ。朝いっぱいのお茶は、難逃れと言う言葉があるらしい。

朝一杯の茶を飲んだ。
朝いっぱいのお茶は、難逃れと言う言葉があるらしい。
写真は、一緒に泊まって貰った人に、
淹れて貰ったお茶を、撮ったもの。

昨日の晩、淹れて貰ったお茶がおいしかったので、
今日の朝も淹れて貰った。
自分で淹れるときは、なかば義務的なのかな、
あまりおいしいとは、思わないけど、
淹れて貰うと、おいしい。

20年以上前に、聞いた「朝のいっぱいのお茶は、
今日の日の難逃れ・・・とういう言葉がある。
お母さんが言っていた」と、私の同じ年の女性が
言っていたのを、思い出した。
いっぱいのお茶を飲みながら、それを思い出した。

2015年5月27日水曜日

檀一雄さんの書いた、「檀流クッキング」を読んで、読書感想を書きました。

檀一雄さんの書いた、「檀流クッキング」を読んで、
2011年1月、私は下の通り、読書感想を書きました。
写真は、私の夕食を、撮ったものです。
本の内容が、クッキングなので、私の夕食なら、
ふさわしいと思い、乗せました。


++++++++
読書感想文(檀流クッキング・・・檀一雄)
 
檀一雄さんは、1912年2月に山梨県に生まれ、
<1976年1月に死亡した小説家です
 
檀一雄さんは、1912年2月に山梨県に生まれ、
1976年1月に死亡した小説家です。
山梨県に生まれましたが、お父さんが転勤等で、
いる場所がいくつか変わっており、
それが小説家の檀一雄さんの放浪癖に繋がっているとか。
 
檀家はもともと福岡・柳川藩の普請方を勤めた家柄であり、
お母さんも久留米出身です。
 
子供のときに山梨県(父親は山梨県立高校図画教員と
繊維工業試験場の嘱託を兼務)、
福岡県、東京都・谷中、福岡県・久留米、栃木県・足利市
(父親は教員をしていた)と変わり、
どういう関係か分からないけれど、足利市で1921年、
母親が出奔。
 
残された檀家では、父親は何もしない
(何もできなかった?)ので、9歳の檀一雄さんが、
小学校に入る前の3人の妹に食べさせるため、
料理で孤軍奮闘、材料の買い物をし、料理をし、
その結果、料理の腕も上げていきました。
これが、檀流クッキングとして、結実していきます。
 
檀一雄さんは、
足利中学校、福岡高校、東大・経済学部に進みました。
 
戦前のことは、私は良く分からないのですが、
檀一雄さんが東大に入ったのが、
1932年ですから21歳になったときです
(昔は6=小学校・5=中学校・3=高校・3=大学の
制度ですから、大学に入るのは20歳で、
檀一雄さんはそんなに遅れていないのですね)。
 
歳が少し行っているような気がしますが、
福岡高校で同人誌を発行したり、
社会主義読書会に入って停学処分を受けるなど、
若いときから活発に活動して、
東大に入るのが遅れたのでしょうか。
 
檀一雄さんは東大に入ってからも、
同人誌を発行するなど小説家に、
まっしぐらだったのでしょう。
この同人誌の活動で、太宰治や井伏鱒二と知り合い、
師と仰ぐことになった佐藤春夫などとも知り合いました。
 
檀一雄さんは最後の無頼派小説家と言われましたが、
行動は破天荒だったのでしょう。
40歳のときの1951年には、
小説「長恨歌」と「真説石川五右衛門」で
直木賞を受賞しています。
 
愛人関係になった舞台女優の入江杏子との、
出会いと別れまでを書いた「火宅の人」は、
1961年から1975年まで書き継がれましたが、
これが代表作でしょうか。
1976年肺がんでなくなっています。
 
子供には、
長男のエッセイストの檀太郎(1943年生まれ)がおり、
長女には女優の檀ふみ(1954年生まれ)がいます。
私など、檀一雄さんなど、檀ふみのお父さんで、
「火宅の人」を書いた人という認識しかなく、
その本は1冊も読んでいません。
 
しかし、料理を良くする友だちが、
檀一雄さん
(ひょっとしたら長男の檀太郎だったかも知れない)
を読めというので、今回、買ってきて読みました。
 
++++++++
<檀一雄さんのクッキング>
 
檀一雄さんは、太宰治と仲が良くなるなど、
作家としても精一杯生きたと思います
(檀一雄さんの写真を見たら、
精一杯という言葉を使いたくなりました)。
が、料理人としても一流だったようで、
この本はその面目躍如です。
 
両親が別れて、何もしない(何も出来なかった)
父親に代わり、9歳の檀一雄さんが
小学校に入る前の妹たちの食べるものを作ったとか。
必要に迫られて小さいときから料理をしたから、
料理の実践では、檀一雄さんは人後に落ちません。
 
第2次世界大戦では、中国に従軍記者として行って、
そこでも地元のものを食べたり、
料理しているところを観察したりしています。
中国人とも、韓国人とも、ロシア人とも一緒に生活をし、
そこでも料理を覚えました。
 
晩年はポルトガルに住んでいますし、
それまでも世界のあちこちに行って、
料理をしているところをジット見て、
自分のものにしています。
 
檀一雄さんの食べること、
料理することへの拘りは凄いですね。
9歳のときから、(多分自己流で)料理を作って来て、
疑問に思っていたことを、人に聞いたり、
見ながらして、料理を覚えていったのでしょう。
 
檀一雄さんが小説家だったなんて、
この本を読むと信じられないようです。
 
料理なんて大体でよい、
自分流のものを作ればよい、やれば分かってくる。
しかし土地土地のものは、
いろいろな知恵が地元の料理に入った結果だから、
バカにしてはいけない。
 
この本を読むと、
そういう檀一雄さんの声が聞こえて来そうです。
できるだけ、安い材料を使って料理をつくりたい。
しかし、にんにくや、生姜や醤油や、片栗粉、油
(特にゴマ油)など、料理の味をアップさせるものへの
拘りは、あると感じました。
 
++++++++
<私の料理体験>
 
私は食べるほうは、一人前だと思います。
小さいころから、母親が作ったものや、
父親のつくったものや、
夏に水戸にいた親戚に長期間行っていたときは、
伯母さんの作ったものを食べました
 
(何故か伯母さんの作ったものでは、
茹でたとうもろこしと、
あっためた山羊の乳と、
ワカメの味噌汁ばかりを覚えていますが)。
 
母親は高血圧で、ずーっと寝たりしていたこともあり、
料理は、父親の作ったものを
食べることが多かったのですが、母親には簡単な料理で、
ときどき天才的な料理の腕を感じるときがありました。
 
シジミを母親と近所の人と川に採りに行って、
それを味噌汁にしたら、それがおいしくて、
世の中にこんなおいしいものがあるのかと思いました。
最近のしじみの味噌汁が、それほどおいしく
感じられないのが不思議です。
 
それからあったかいごはんに、醤油をかけて、
醤油おにぎりを作ってくれて、
それを食べたときおいしくて、
何故、醤油おにぎりはおしいいのかと父親に聞いたら、
 
「それは、醤油においしい素が入っているからだ」と
教えてもらって、誰もいないとき、
醤油の一升ビンを盗み飲みしたら、
私はそれで倒れてしまいました。
小学校4年生のときです。
 
父親は、私が生まれたときは常磐炭坑の坑夫です。
私が生まれた前か後か分かりませんが、
父親は炭坑で落盤事故にあって、一時的にいるつもりだった
常磐炭坑にずーっといることになり、
私も炭坑の長屋で育ちました。
 
その父親は、新潟県・水原の生まれですが、
14歳のときからは、料理屋に丁稚奉公にいったらしく、
料理は上手です
(余談ですが、料理屋では、鶏もたくさん殺したらく、
父親は鶏を殺すのも上手でした)。
 
大根やニンジンを桜の花の形にするのも上手かったし、
鶏を殺して、
肉やモツを料理して食べさせてくれました。
うずら豆を煮るのも得意で、
良く食べさせられたものです。
 
母親が59歳で、高血圧で死んでから、
私がときどき父親のいた水戸
(炭坑を退職してから父親は、
福島から母の故郷の水戸に引っ越していました)の
家に行って、二人っきりで夜更かしして話しながら、
一升瓶を2本ぐらい開けてしまっていました。
 
その時、父親がおかずに作ってくれたのが、
沢山の具が入った卵焼きと、
烏賊の塩辛(父親が烏賊を前日買ってきて、
あまりからくなく、一夜でつけたもの)です。
 
これが、酒とは相性がいいようで、
大食いの私は、卵焼きを5つぐらいと、
烏賊の塩辛を5匹分ぐらい、いつも食べました。
私も作ってみたいなと思いましたが、
私には無理なようです。
 
父親は死ぬ前、6年間姉のところにいましたが、
最初の3年間は姉のところに、
後の3年間は、姉の家のそばの病院にいました。
その最初の3年間は、私が毎週行って、
日曜日は私が料理を作っています。
 
スーパでいろいろな野菜等を1000円分程度買ってきて、
ごはんは別に姉が作りましたが、
これで昼食分と夕食分を作りました。
野菜等は一度買うと、4~8回分は持つ量なので、
毎週足りなくなったものを買います。
 
肉、とりのガラ、卵、大根、たまねぎ、ねぎ、
ニラ、キャベツ、白菜、ニンジン、ごぼう、
ジャガイモ、サツマイモ、おくら、レンコン、
シイタケ、シメジ、エノキだけ、なめこ、エリンギ・・・。
 
これらをとりのガラを先に入れて、
大根、ジャガイモをいれて、あといろいろな具を入れます。
茸は、何かたくさんいれました。
最後に鰹節や、ミソや、ゴマ油をいれると出来あがりです。
 
キャベツ、ニンジン、ごぼう、ニラを
油でいためたりもしました。
ごはんの代わりにそばも茹でたりします。
そして、そのまま食べたり、焼きソバにしたりしました。
私にとっては、これが初めての料理でしたが、
料理は楽しかったのを覚えています。
 
今は、女房が作ったものを、毎朝食べています。
1年に2回ぐらい友達のつくった福島のログハウスに行くと、
友達や友達の奥さんが作ったものを食べます。
昼食と夕食は、そとでいろいろなものを食べています。
 
料理して分かったのは、要は素材だなと思いました。
煮たり焼いたりすれば、後はお腹が消化してくれます。
それと料理がおいしいか、おいしくないかは、
素材や料理のつくり具合もあるでしょうが、
食べる人の体調もものをいうのでしょう。
 
運動してお腹がすいていれば、
なんでもおいしくなるのだと思います。
だから、料理するとき気をつけるべきは、
素材の組み合わせや料理の仕方で、
料理をまずくしないことだと思いました。
 
++++++++
<この本の構成>
 
この本の構成は、次の通りです。
( )内は説明されているページ数です。
それぞれの章の中に含まれる項目(料理の名前)を、
私が思い出す意味もあって一緒に書き出します。
 
1.春から夏へ(52ページ)
 
カツオのたたき、具入り肉チマキ、タケノコの竹林焼き、
イカのスペイン風・中華風、
レバーとニラいため(モツ料理1)、
前菜用レバー(モツ料理2)、タンハツ鍋(モツ料理3)、
コハダずし(オカラ料理1)、
 
大正コロッケ(オカラ料理2)、
みそ汁と丸鍋(ドジョウとウナギ1)、
柳川鍋・ウナギの酢の物(ドジョウとウナギ2)、
シソのずし・メハリずし、サケのヒズ漬と三平汁、
豚マメと豚キモのスペイン風料理、東坡肉(豚の角煮)、
 
イモの豚肉はさみ蒸し、トンコツ、
「カキ油」いため2料理、ツユク、梅酢和え・蒸しナス、
梅干・ラッキョウ
 
2.夏から秋へ(52ページ)
 
柿の葉ずし、インロウ漬け、ソーメン、釜揚げうどん、
ヒヤッ汁、アジゴマみそのデンガク、ユナマス、
カレーライス(西欧式)、カレーライス(インド式)、
カレーライス(チャツネの作り方)、ピクルス、
 
干ダラとトウガンのあんかけ、イモ棒、獅子頭、
ローストビーフ、ブタヒレの一口揚げ、
シャシュリークと川マスのアルミ箔包焼き(野外料理1)、
鶏の「穴焼き」(野外料理2)、サバ・イワシの煮付け、
小魚の姿寿司、トウガンの丸蒸しスープ
 
3.秋から冬へ(62ページ)
 
 オクラのおろし和え、キンピラゴボウ、ビーフ・ステーキ、
ビフテキの脇皿、ショッツル鍋、タイチリ、キリタンポ鍋、
ボルシチ、サフランご飯、鶏の手羽先料理、バーソー、
オニオン・スープ、アナゴ丼、魚のみそ漬、
クラム・チャウダー、ヨーグルト、ヒジキと納豆汁、
 
カラシレンコン(おせち料理1)、
牛タンの塩漬け(おせち料理2)、
ダイコン餅(おせち料理3)、博多じめ(おせち料理4)、
酢カブ(おせち料理5)、伊達巻(おせち料理6)、
ザワーブラーテン(おせち料理7)、
蒸しアワビ(おせち料理8)
 
4.冬から春へ(60ページ)
 
 タイ茶漬、アンコウ鍋、羊の肉のシャブシャブ、
ジンギスカン鍋、朝鮮風焼肉(朝鮮料理1)、
牛豚のモツ焼(朝鮮料理2)、ナルム(朝鮮料理3)、
野菜料理3種(朝鮮料理4)、
朝鮮雑炊・心平ガユ(朝鮮料理5)、豚の足と耳、
 
麻婆豆腐、杏仁豆腐、焼餅、モチ米団子、鯨鍋、
チャンポンと皿うどん、パエリア、ブイヤベース、
干ダラのコロッケ(バステーシェ・ド・バッカロウ)、
牛スネのスープと肉のデンブ、スペイン酢ダコ、
スペイン風と松江の煎り貝、牛の尻尾のシチュー、
ビーフ・シチュー
 
++++++++
<檀一雄さんの料理をするときの気持ち>
 
本を読んでいて、
檀一雄さんの大きな声が聞こえてきそうな文章に、
何度もあいました。
そのなかから、私の印象深かったものを上げて、
この読書感想文を終わります。
 
―――さて、鍋の蓋を閉め、鍋の底に火をいれる。
カマユデにするわけだが、可愛そうだなどという、
つまらぬオセンチはよしたほうがいい。
 
人間は牛を食い、豚を食い、鶏を食い、魚を食い、
ありとあらゆるものを食って、
頭脳と体力を太らせてきたのである。
 
―――ところが、残念なことに、この頃家庭で、
梅干をつけるような暇な女性がなくなってきてしまって
肝腎の梅干をつくらないから、
梅酢もなく、梅酢和えなどつくりようが無い。
 
そこで、私は、忙しいご婦人方にも、断乎として、
梅干を漬けなさいと申し上げる。
断乎として、ラッキョウをお漬けなさいと申し上げる。
 
―――そのアジゴマみそで即座につくれる料理は
「酢みそ和え」だ。
アジゴマみそみたいに砂糖をほんの一つまみ加え、
カラシ粉を入れ、酢をたらし、かきまぜれば、
素敵な「酢みそ」になること請合いだから、イカでも、
コンニャクでも、生シイタケでも、ネギでも何でもよろしい。
 
塩をおとして水煮したものに、
この酢にといた「アジゴマみそ酢」をまぶしつけて、
青ジソの葉とか、サンショウの葉とかちょっと散らせば、
亭主はビックリして、うわずってしまうかも分からない。
(私でもうわずってしまうのかな)
 
―――親しい男女、親しい友人達と、打ち連れて、
海や野山に遊び、その波打際や、湧き出す泉のほとりで、
野蛮な料理を煮たり、焼いたり、
それをまた手掴みで食べたり、飲んだりすることほど、
愉快な心身の解放がまたとあるだろうか。
 
それこそ、自分の活力がもう
一度たしかめ直されるような気がしてきて、
新しい知恵や勇気がコンコンと
湧き出してくるような心地さえするものだ。
 
―――日本的な質素な食べ物のなかで、
何が一番なつかしいかといったら、
それはキンピラゴボウとヒジキだろう。
少なくとも私はそうだ。
 
何はなくとも、ワカメと豆腐のみそ汁があり、
キンピラゴボウとヒジキがあり、アジの干物でもあったら、
もう朝はそれで充分に満足したようなものだ。・・・
今日、ゴボウ愛用の国は、
日本が第一といっても、決して過言ではないだろう。
 
―――少しばかり固めにたたいて、
そのゴハンを熱いうちに、スリ鉢に取り、
スリコギでトントンとつくのである。
 
この仕事は坊やをおだててやらせるのが一番たのしいし、
造作も無い仕事だが、あんまり突き過ぎて、
完全なお餅になってしまわないほうがよい。
(この坊やは、
檀一雄さんの長男の檀太郎さんなのでしょうね。きっと)
 
―――ボルシチはけっしてあわててはいけない。
ロシア人はたっぷり1日かけるのである。
 
―――おそらく、私の旅行癖や放浪は、
私の買出し愛好と重大な関係があるのであって、
私にとってその土地に出かけていったということは、
その土地の魚菜を買い漁り、その土地の流儀を、
見様見真似、さまざまなものを煮炊きし、
食ったということかも知れない。・・・
 
また、私の同化性というか、適応性というかは、
人並みはずれているようで、
ロシア人と一緒にいればロシアのものを食い、
朝鮮人と一緒にいれば朝鮮のものを食い、
日本のオフクロのみそ汁でなくちゃ、という
帰巣本能に乏しいようだ。
 
というより、オフクロの味をよその味と思っているわけで、
私が真ん中であり、私が移動すれば、
私の移動先が私の味だと思い込んでしまうようだ。