2014年9月18日木曜日

宮尾登美子さんの「女のあしおと」を読んで、私は読書感想を書いた。

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2009年5月、宮尾登美子さんの「女のあしおと」を読んで、私は下の通り読書感想を書いた。写真は、幕張の宇宙博で、ロケットの先を撮ったもの。宮尾登美子さんの本を読むと、宮尾登美子さんの人生が波乱万丈であったことが分かる。それは写真のロケットの先端が、空気を切り裂いて、空を飛び、また地球に帰ってくる様に似ていた。

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読書感想文(女のあしおと・・・宮尾登美子)

<宮尾登美子さん>

宮尾登美子さんは、1926年4月高知市に生まれ、地元の高校を出た女流小説家で、「連」「櫂」「蔵」「篤姫の生涯」等が有名です。私も「櫂」「蔵」の映画化したものを、テレビで見ましたが、その映画の背景に流れる琵琶の音楽とともに、ストリーが印象的した。

近所の区民図書館に行っても宮尾登美子さんの本が沢山あったので、一度読んでみたいと思っていたのですが、なんとなく手が出なくて今まで来ました。しかし今回、大きい字の大活字本の中に、1981年に世に出た宮尾登美子さんの「女のあしおと」という随筆があったので、随筆ならそれを読めば宮尾登美子さんの素顔も分かると思って、図書館からこの本を借りてきました。

そしたら、最初に「浮き沈み五十年」があり、そこには彼女の生まれてからの半生が書いてあったので、宮尾登美子さんのことが良く分かりました。さすがに小説家、半生がよく分かる内容です。

彼女は太宰治賞を貰った「櫂」で、小説家として名をなすまで、苦労が多く、波乱万丈の人生で、また人生を一生懸命生きた人でもあったことが分かりました。自分のすぐそばに、もがいているこういう人がいたら嫌だと思います。でも、私は(自分のことは棚に上げて)、彼女が怒るかも分かりませんが、こういう人生を生きてきたから、あの小説があるのだと、不思議に納得できました。

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<宮尾登美子さんの浮き沈み50年>

次は「浮き沈み50年」の要約みたいなもので、読んでも面白くもないと思います。しかし私は彼女の生まれてからの50年を、私なりにたどることで、こういう人生もあるのだ、こういう奇跡的な人がいたのだと思い、その小説の裏側にある、彼女の激しい情念に触れた思いがしました。少し長いですが、「浮き沈み50年」を要約してみます。

宮尾登美子さんは1926年四国高知市に、芸者斡旋業の水商売の家に生まれました。本当のお母さんのことは宮尾登美子さんもあまり知りませんが、四国高知にも来た三味線・浄瑠璃語りだったとか。

宮尾登美子さんは地元の高校にいき、代用教員もして、17歳で結婚し娘も生し、結婚した相手の先生について1945年満州に行きました。寒くかつ黄塵にも悩まされた満州で、乳飲み子をかかえ苦労を味わいます。そして、戦争に負けて人悲人のようにまた苦労して、日本に帰って来ました。

それからは、ご主人の家(高知市の西の方)で農家の嫁として田畑仕事で働きますが、そのうち結核を病み寝込みます。もう死ぬかという中で、満州での苦労は書き物にして残したいとして、人知れず自分のために、物語を書き始めました。それが小説家“宮尾登美子”につながります。

その後結核は治りましたが、家の田畑を堤防建設に取り上げられたのを契機に、保母さん7年、社協通い4年を勤めましたが、夜ごと小説を書く習慣は捨てませんでした。社協をやめて、投稿した小説があり、それに手を加えて「連」としましたが、それが1962年の婦人公論の女流新人賞を貰いました。

受賞後、37歳で離婚し女の子2人を引き取り、さらにその後3歳年下の今の夫(高知市の同じ小学校出身で、夫は高知新聞のデスクをしていましたが、初婚です)と結婚しました。

新人賞受賞後の10年は、作家としては鳴かず飛ばずで、どん底をまた味わい、借金取りから逃れるように、東京に来ました。働く気になればなんとかなるのが東京で、娘も上京します。小説家としては立てなかったのですが、1968年には借金も返し、生活も安定してきました。

そして、東京で勤めた有楽町界隈の2社で、本やPR誌の編集の仕事をしていましたが、それをやめるとき自家製本した「櫂」が、1973年太宰治賞を貰いそれから小説家として立つのです。

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<その頃の東京>

私も1968年、福島から東京に出てきて過ごしたので、彼女の語りがひどく懐かしい。あの頃の東京の雰囲気、彼女の働いた有楽町の近辺は分かるし、何より、彼女が書く東京について、其頃の私がどこにいて、何をしていたか思い出します。

私より20歳程度うえのお姉さんが、私の近いところでこんなことをしていたのかと、参考になりました。そして、宮尾登美子さんは、東京であちこち過ごしましたが、その場所は、東京で20歳から61歳までを過ごした私にはよく分かります。でも宮尾登美子さんが、東京でも一生懸命だったことが分かって、感心もしました。

宮尾登美子さんと言えば、今までその小説が面白そうなことと、きっと古風な日本的な人であろうと勝手に想像していましたが、その人間的なことに何故か、今回の読書で親近感を感じました。彼女が与えられた人生の中で、良く生きようとし、分からないときは右往左往した、ある意味では分かりやすい人だと思いましたが、それを生き抜いたのは凄いとも思います。

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<宮尾登美子さんの感動に感動する>

一番長い「浮き沈み50年」以外の随筆は52ありましたが、どれも宮尾登美子さんが、妥協をゆるさず(いい加減さなく)書いてあって、その随筆からは彼女の人となりが浮かび上がって来ます。40歳過ぎまでの彼女の苦労、一生懸命さが、彼女を謙虚にさせたのでしょうか、文章の行間から彼女の謙虚さが漂ってきます。

また、良いもの(それは四万十川等高知の風景だったり、彼女が小さいときから慣れ親しんだ三味線・着物だったり、浄瑠璃の話だったり、磁器だったり、朝市のことだったりする)に対する一途な感動で、彼女が行動するさまに、私も感動します。そして、随筆に現れる彼女の「自身の生真面目さ、娘・孫」に対するユーモアと、視点の余裕と、失敗を認める寛容さも感じるので、それは読んでいて楽しかった。

私の個人的なことを言えば、残りの52の随筆の中では、私の元上司がもう5年間、新内の浄瑠璃をやっていますので、その影響で浄瑠璃に関する随筆に興味がありました。この人の随筆に出てくる「蘭蝶」「明烏」は新内の最初に出てくるものです。

私は宮尾登美子さんほど新内が分かっていませんから、感動も少ないのですが、新内にはなじみができたので、彼女が何に感動しているかは分かりました。

また新内とは別に、近松門左衛門の「心中天網島-おさん、小春が生き抜いた女の義理」も興味深く読みました。近松もの、西鶴ものは、私は江戸のエッセンスと思います。どの物語も、事実を下敷きにしていました。そして、江戸時代の人が見たいもの聞きたいものを、近松や西鶴が感じ取り、そこに事実を収斂させて行ったのが彼らの物語だと思います。

そういう意味では、近松ものや西鶴ものには、江戸時代の人が求めたもの(文化)があったのだと思います。私が近松ものをラジオで聞いたときも感動しましたから、江戸の心は私の今に生きているのかも知れません。

「心が分かれば全部ストリーを言わなくても、あなた分かるでしょう。だから私は、出演する人の心が分る事実だけを物語に書いて、言いたいことは、全部はいわずに間接的に言っているのです」という、近松門左衛門の声が聞こえてきそうです。

それが一番シンボリックに分かるのは、宮尾登美子さんの経験によれば、人形劇の文楽だそうです。なるほど、私は文楽をそういう目でみなかったな。一度文楽をそういう目で見てみようかなと思いました。

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<宮尾登美子さんって、きれいな人>

小説家では、山本周五郎、倉橋由美子、林芙美子が取り上げられていましたが、どれも分かります。そして私が一番印象に残ったのは、これらの小説家とは別に次の言葉でした。

―――粋と野暮は紙一重―――世に粋の果ての野暮という含蓄の深いことばがあるが、江戸小紋には、そういうひねりあげたむずかしさがある―――よし、いつかはこの着物のほうから自分に寄り添ってくるよう、自分を磨いてみよう

―――相撲の言葉には一言でずばり表現した簡潔なものがたくさんあり、私は小説で男を描くときなど良く参考にします。―――小唄のなかに「逢わぬは逢うにいやまさる。いわぬはいうにいやまさる」―――じっと考えているとこれなどもおもしろい。

60歳を過ぎると、人生が分かってくることがある反面、無神経になってくる部分もあるそうです。これは私の意見ですが、良くとも悪くとも自分の考えで生きるしかないし、自分の悪い部分で人に迷惑をかけるのはしょうがないかも知れない。本当は分からないで、まわりに迷惑をかけているのが多いのだから。

そんなことも考えながら、この「女のあしあと」を読みました。でもホームページの写真で見る宮尾登美子さんって、笑っていて少し恥じらいもあり、きれいな人なのですね。

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