2014年6月30日月曜日

今日(6月30日)早朝、窓からNTT本社ビルとオペラシティ―ビルを眺めた。

今日(6月30日)早朝6時、窓からNTT本社ビルとオペラシティ―ビルを眺めた。世の中は平穏。昨日の昼の落雷と、嵐が嘘のように静か。今週も、今日から始まる。

運送会社さんは、働き者だ。朝早くから働いている。仕事を通じて分かる。そうここにも、私に刺激を与えてくれる、人々がいる。人は人からエネルギーを貰いながら、生きているのだ。こうして、大勢の私のご縁のある人から、私は刺激を貰いながら生きているのだと思った。

話は変わるが、昨日の雷と嵐は凄かった。空気の入れ替えのため、窓を開けていたのだが、ピュウー、ガタガタという音は凄かった。あわてて窓を閉めた。私は昨日もパソコンゲームを16時間ぐらいしていた。パソコンゲームはやめようと思っているのだが、気が付くと、休みの日はやっていることが多い。

昨日はやることが多いはずだったのに、気が付いたら、16時間やり続けていた。自己嫌悪に陥る。何よりもおなかが空いた。ご飯を食べて、それから2週間分の料理の下ごしらえ。今日の1時までかかってしまった。ゲームの世界に私の頭が、没入するのだろう。パソコンに向かうと、普通にやっていたことが異常に思えた。今朝寝たら、頭がもとに戻っていた。

一昨日(6月28日ー土)、東急多摩川線「武蔵新田」の駅から西新宿に戻ってきた。

一昨日(6月28日ー土)、東急多摩川線「武蔵新田」の駅から西新宿に戻ってきた。一昨日は、プールに行って、女房の実家のある武蔵新田に行ったが、西新宿に戻ってきて、撮ったのが、上の写真。

手前が西新宿のワシントンホテル、写真に写っていない右側が都庁、道路の向こうに小さく見える森は、新宿公園。写真の右側に切れて写っているバス停は、ワシントンホテルの前から、成田航空に向かうリムジンバスのバスの停留所。ワシントンホテルは、外人客の宿泊者が多いので、時間になると、利用客は多い。

2014年6月29日日曜日

2008年6月28日、私は読書感想文(土民の言葉・・・葦津珍彦)を書きました。

 
昨日私は、武蔵新田に行きました。そこで新田神社に行きました。神社に縁のある、読書感想文をブログで書くので、そうだ新田神社を撮ろうと思ったのです。それだけの理由ですが、神社はいつみても心が落ち着きます。上の写真は、新田神社の風景。

ここは女房の実家からすぐ近くなので、なじみのある神社です。人生を大事に生きるときは、神社を大切にしようと思うのは、日本人の普通になっているのも知れない。以下に昔2008年6月28日、読書感想文を下の通り書きました。読み返してみると、当時の私がが何を言いたいのか、さっぱりわからなかtたのですが、まあいいやと言う気分です。
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読書感想文(土民の言葉・・・葦津珍彦)

<葦津珍彦(あしづ うずひこ)さん>

葦津珍彦さんは、1909年九州福岡で耕次郎さんの長男として生まれ、1992年鎌倉の自宅で死にました。父耕次郎さんは箱崎宮社家で社寺工務所を経営していた、在野の神道家です。葦津珍彦さんは府立5中で左翼でしたが、その後右翼に転向し、弱冠23歳で父の後をついで社寺工務所の代表になりました。

戦後、1946年神社本庁の設立に尽力し、またその後神社新報の主筆としても活躍しました。その論理は葦津氏独特のものがあります。1968年主筆をやめてからも、神道界には影響を与え続けました。福岡出身ですから、自由民権運動の(右翼の始まりとも目される)福岡の玄洋社などとも関係し、頭山満などとも交流をもちました。そして左翼だったときと、右翼だったときに思索を重ねて、葦津哲学を作っていったと思います。

戦前は、ドイツ、イタリア、日本の三国同盟に反対し、東条英機から睨まれ投獄されました。戦後はGHQの神道指令に反対し、またアメリカに睨まれるという硬骨の人でもあります。

<この本の成立>

この本は1961年、当時の時事に関わるニュースと関連づけて、葦津珍彦さんが書いたものです。それを長男の葦津泰国さんが、2005年「昭和を読もう」として再刊しました。葦津珍彦さんの言葉は、深く考えさせるものがあります。この本を読み終わって、そう思いました。

この本のタイトルに使われている「土民」という言葉には、いわくがあります。戦後すぐにアメリカのGHQが、日本に進駐してきて数々の指令を出しましたが、「神道指令」も出しました。葦津珍彦さんは、この神道指令の件でGHQにクレームをつけに行きます。そしたら、「神道は土民の宗教だ」と、GHQから言われました。これが土民という言葉の原点です。

太平洋戦争で、多くの人が「天皇陛下バンザイ」と言って死んでいったのが、アメリカから見ると信じられないのでしょう。戦後すぐのときは、アメリカから進駐してきたGHQから見ると、「天皇」が、そして「神道」(戦争中及び戦争前、神道は国家神道だったのです)がつぶさなければいけない、日本の悪の権化でした。

そしてアメリカから見ると、日本人は土民にも等しかったのだと思います。それぐらい戦後すぐの日本は、文明的にアメリカから遅れていました。葦津珍彦さんは、神社本庁を作った一人ですから、GHQから見ると、不可解な日本人の代表の一人だったのでしょう。だから侮蔑するように、「土民」という言葉を投げつけました。そして葦津珍彦さんは、GHQから言われた“土民”という言葉を、逆にこの本の題名に選んだのです。

この本が書かれた1961年と言えば、私が13歳のとき本です。分かる話もあるし、分からない話もありますが、その雰囲気は伝わって来ました。そうかこれが当時の私の周りの、雰囲気だったのだなという思いです。

まったく別な話ですが、私には忘れられない言葉があります。それは広島の原爆慰霊祭での、「原爆許すまじ」という歌の言葉でした。これを聞くとアメリカ人は「日本人は、原爆を落としたアメリカ人を許すなと言っている」、と聞くのだそうです。しかし、日本人はそんな意味には使っていません。原爆を落とされるような環境に追い込まれた日本を、もう2度と作らないという決意をその言葉に込めています。

私も団塊の世代ですから、子供時代、何度も広場で茣蓙を敷いて映画を見ました(多分、労働組合が広場で映画会をやっていた)。そのとき原爆を報じるニュース映画を、毎回、映画の前座で見せられます。が、私はその前座の間じゅう、下を向いていました。それぐらい、ニュース映画で流される被爆者たちは、可愛そうだったのです。

戦争に負けた日本は、アメリカから施しを受ける立場になっていました。だから、GHQが日本人を、「日本人の精神年齢は12歳ぐらい」と言って、「日本人は土民」といった気持ちも、残念ながら理解できます。それに乗じて、日本人を黄色い西欧人にしようと思った、日本人がいたことも忘れられません。

<1960年といえば、安保闘争の頃のことだった>

葦津珍彦さんのこの本は、1961年より前の時事的なことについて、意見を書いています。当時、13歳前の齢を生きていた私には、書いてあることが分かることが多かった。私も小さいながら、いろいろ感じていたので、言っていることが、同意するかは別にして分かることが多いのです。

1960年、山口二矢少年が日比谷公会堂で、当時の社会党委員長の浅沼否次郎さんを、演説の壇上で刺殺したのは、衝撃的でした。山口二矢少年の刺殺したときの顔も、新聞に載ったので覚えています。同じ1960年は日米安保反対闘争が起こって、世の中は騒然としていました。デモの東大生、樺美智子さんが羽田の反対闘争で死んだのも、このときでしたね。

人の死は、人の行動を過激にします。アメリカのハガチーさんが日本で殴られたのも、アイゼンハワー大統領が日本にくるのをあきらめたのも、岸さんが退陣したのも覚えています。それぐらい頻繁に、これらのニュースが新聞に載りもし、テレビでも流れたのですね。全学連という言葉も、(今はもう)懐かしい。

1958年は皇太子と正田美智子さんが結婚し、街をパレードしたのも懐かしい。これを機会に白黒でしたが、テレビを各家庭が買い始めたのですね。すべての人が旗を振って、歓迎ムード一色に見えたのは、私の周りがそうだったからでしょうか。自衛隊のことも書いています。フルフチョフの“デタント”の言葉も懐かしい。1953年に、ソ連のスターリンが死にました。フルフチョフが秘密会議でスターリンを批判したのは、残念ながら、当時の私には分かりません。

この本で私が、初めて知ったことも沢山ありました。1956年のハンガリー動乱が起きソ連がこれを弾圧し、何十万という人が死んだのも、その一つです。共産主義=スターリンであり、世界の共産主義者(日本の共産主義者も当然ですがそのグループ)がそれを信じているなか、唯一スターリンに反対したのは(私などからはカリスマ的に見える)ユーゴのチトーでした。そのチトーが、逆らったハンガリーを応援しています。その一方で、ハンガリー動乱を弾圧したほうが良いといったのが毛沢東で、フルフチョフもそれに勇気づけられて、ハンガリー弾圧を行ったこともこの本で知りました。

この本に出てくる、1961年のケネディの大統領就任式の演説は、私も繰り返し聞いたので、その鮮烈さを覚えています。また、(国姓爺合戦の)鄭成功3代の統治等、台湾の歴史もこの本ではじめて知りました。

<ぶれなかった葦津珍彦さんの見解>

こういう時事的な問題について、葦津珍彦さんは見解を述べています。時事的な問題で、当時の大多数の意見とは違うことを、葦津珍彦さんが見解で述べていることに、「葦津珍彦さんは、立派な人だな」と私は思いました。戦後すぐは、アメリカのGHQ礼賛一辺倒だったのが日本の文化人です。が戦後からしばらくたったこの時代には、アメリカに反発することが、(ある意味では安易な)文化人良識派の特徴になっていました。皆がぶれたこの時代に、葦津珍彦さんは一貫してスタンスがぶれてません。

この時代の日米安保条約反対闘争は、条約を結ぶと日本が、共産国家から原爆を落とされるかも知れないという、(現在なら一笑に付されるかもしれない)危機感が、反対闘争の中心であった社会党の心の奥底にあったことをこの本で、私は知りました。それに対して、そう考えて行動する社会党を批判し、葦津珍彦さんは今思えば当り前の見解を示しています。

葦津珍彦さんの言っている言葉は、今は当たり前に聞こえるかも知れませんが、当時は言うことが大変な時代だったと思います。以下の言葉は、この本からの抜粋です。そして「現実の今」では、社会党は消えてしまいました。
・・・社会主義に対する私見を端的に言えば、社会主義思想が19世紀いらい果たして来た歴史的役割は大きかったし、その過去については功績として認めるべきものが少なくないと思っている。だが社会主義は過去から現在までのものであって、すでに未来のものではないであろう。

私も、右翼的体質があるのでしょうか。この本の言うことはいちいちもっともで、当時いうのが大変だったことを除けば、その通りだと思うし、この本の言っていることを現在の目でみれば、ほとんどがその通りになっていると思います。

<西欧民主主義と宗教と日本などの国>

西欧の民主主義が、功利主義をベースにしており、それはキリスト教を、特にプロテスタントの宿罪意識を引き金にしているというのは、葦津珍彦さんの慧眼だと思います。ちなみに功利主義というのは、商人がエゴをスタートにして行ったことでも、役に立つなら残るし、役に立たないなら残らない。商人のエゴは大事だというものです。いわゆる市場主義がこれに当たります。

功利主義は、一種謙虚なところもあり、ダメなら世の中がダメを出す。本人が言わなくてもダメを出す。だから選挙における多選は政治の仕組みとして、アメリカの初代大統領のワシントンのときからやらないようにしていると、この本は言っています。いわば西欧の民主主義は人の性悪説をベースに・・・、西欧の政治は人を悪だと見ることからスタートしていると言っていました。だから、その制度はある種、ある意味、謙虚なのです。

しかし、キリスト教以外はそうはいかない。当然、日本もそうはいかないと葦津珍彦さんは述べていました。そこで、万世一系の天皇を、そして神道を葦津珍彦さんは言うのです。歴史の流れは葦津珍彦さんを、正解と言っている気もしました。が私には天皇を大事にする、葦津珍彦さんの考えは理解できていません。私に天皇以外に、日本をまとめる力があるものがあるのか、分かりませんのでなんとも言えませんが、私には、天皇は日本の特殊な制度のような気がするのです。

いずれ、それは歴史が教えてくれるでしょう。長い目でみるのが良いので、あわてて何が正解というのを言わない方がいいかも知れません。ただ凄いなと思うのは、葦津珍彦さんが、天皇家の信じる力を言っていることです。これは凄いと思います。あるいは、葦津珍彦さんが正しいかも知れませんが、それはずっと先に悠久の歴史が証明してくれるのだと思います。

<私の組合活動>

私は電電公社、NTTの時代に数年間ですが組合役員をしたことがあります。私が最初の新入社員のときには、組合員になるにも、分会長が私のために来て説明するのを聞いてから、自分の考えと秤にかけて組合員になりました。私は当時としては珍しい堅物だったのだと思います。

それが役員を経験すなでぶなったのは、次のような経験があったからです。それは、2回に1回は断っていましたが、当時(1970年当時)の組合員にはデモ等への動員というものがあり、ときどきは私もデモ等に行っていました。あるデモでシュプレシコールをやっていたのですが、私は先導についていく発声をしませんでした。そしたら「何故、八木さんは発声しないのだ」と右翼的な先輩に聞かれたのです。私は「シュプレシコールの中味が、左よりで私の意見と合わないからしないのだ」と説明したところ、先輩は「シュプレシコールをしてみろ。気持ちが良いから」と言いました。

言ったのがスポーツで電電公社に入った先輩で、右よりの考えも持っている人です。その人の意見と、シュプレシコールの意見は、趣旨が違うでしょう。それでもその人は、和して大きな声を出しているのです。なるほどそういう考え方もあるのだ、と妙に感心しました。それから私は経験主義的に、・・・シュプレシコールでは思ってなくても発声する。その他の事でも、善悪に関係なく、なんでもやって見ようと思うようになりました。それほど、気楽な世の中に変わって来たのが、私が若かった1970年代だったと思います。

そういう意味では、途中から私も節操のない経験主義者にかわりました。そして今に至ります。が、この葦津珍彦さんに触れて、「自分の信念を曲げずに、発言を続ける人がいた」のだと、私は私の人生を振り返っていました。

幡ヶ谷~(京王線)~明大前~(井の頭線)~渋谷~(東横線)~多摩川~(多摩川線)~武蔵新田に行った。

幡ヶ谷~(京王線)~明大前~(井の頭線)~渋谷~(東横線)~多摩川~(多摩川線)~武蔵新田に行った。写真は、東急多奈川線「武蔵新田」の駅を撮ったもの。この駅の近所に、女房の実家があり、私の家のマンションもある。

女房の実家に寄り、女房のお母さんと下の娘とあった。女房のお母さんは、91歳になるけど元気だ。下の娘は、矢口のマンションをリフォームするのでその下打合せ。

2014年6月28日土曜日

GPSは、スポーツや趣味、遊びにも使われるようになって、今後、ますます使われていくだろう。

写真は、友達が携帯電上で、GPSで測位した自分の位置を、地図上でみているところ。GPSは、カーナビ、携帯電話と使われ方が広くなった。連れてその機能の複雑さに較べて、デジタル地図とともに、価格が安くなった。GPSは、スポーツや趣味、遊びにも使われるようになって、今後、ますます使われていくだろう。

スポーツ、ゲームでのGPS利用は種々考えられると思うが、ここでは代表的な4つぐらいを説明する。

<登山でGPSを利用する>

登山のときは、GPSが地図と組み合わせて威力を発揮します。地図は1/25000の地図が、だいたいの登山用GPSにはつくようになりました。あるいはグーグルアースと組み合わせて、自分の歩いて来た軌跡、今の位置を把握できるようになります。

予定コースや予定ポイントをいれて、ナビゲーションとして使う。自分の歩いて来た軌跡を見る。自分の登山行動を仲間とシェアするなどの機能もあります。

いずれも電池を使うのですが、これがなくなったら使えないので、電池のチェックは必要です。たいてい1日ぐらい持つように作られています。

<スポーツでGPSを利用する>
スポーツ用のGPSは腕時計形が多くあります。距離積算、移動速度、心拍数、方位、高度なども測れるものも出来ました。グライダーやパラグライダーの協議でも、GPSが使われるようになっているとのこと。

<GPSドローイング>

GPSロガーで、GPSがいた位置を追跡できますが、この機能を使って、地図上に地上絵を描くものが、GPSドローイングです。荷物にGPSを積んでルート指定で送ったり、自分がGPSを持って動いたり、そこには工夫がたくさんあるようです。

<GPSをエリア奪取で利用>

auのサービスで、緯度と経度を1分ごとに刻み(距離にすると南北約1,88km、東西約1.48km)、そこへ行くと陣取りをするゲーム。開拓――そのエリアへ初めていく、奪取――誰かが既に開拓したエリアを取得すること・・・があるらしい。私はまだ、やっていない。

日本中に、エリアはいくつあるのだろう。山の中は大変だろうな。細い道をいけば、開拓できるのだろうか。・・・まあ、やってないといろいろ、疑問点はでてくるが、やると分かるし、やっている人は大勢いるようだ。

2014年6月26日木曜日

いつも学んでいる先輩と、調布の甲州街道そばの店でコーヒを飲み、そして駅前近くに戻り、魚などを食べた。

いつも学んでいる先輩と、調布の甲州街道そばの店でコーヒを飲み、そして駅前近くに戻り、魚などを食べた。この写真は1軒目のコーヒ店の内部を撮ったもの。店内は良く手入れが行き届いており、花なども飾ってあり、雰囲気が良かったので、思わず写真を撮ってしまった。

先輩は、やり続ける凄さを持っている。沢山尊敬する知人を持っていて、周囲の人に恵まれた私だが、この先輩も私には、いろいろ得ることが多い人だ。やはり高度成長期の日本を、作ってきた人だと思う。私からは、この人が宇宙人に見えないこともない。なにしろ、半端な性格ではない。

この前お会いしたのは、8ケ月前ぐらいだろうか。でもお話ししていて、この方が今も、意気軒昂
だったのは嬉しかった。もう70歳を過ぎたのに、発明家生活をしている。その対象が大きすぎたので、対象を食べきれない魚みたいになるのではないかと思っていたが、それでも何年もかかってやり続ける凄さがこの方にはある。そして、今、最終コーナが見えてきた。お話しから、そんな感じを受けた。

たくさん、お話をして昨日(6月25日)の目的の時刻、18時を過ぎたので、別れ、京王線「初台」の駅に戻ってきた。

昨日(6月25日)、調布駅で目的の人と会い、甲州街道まで歩いた。

昨日(6月25日)、調布駅で目的の人と会い、甲州街道まで歩いた。写真は甲州街道に出て、甲州街道を撮ったもの。向こう側(写真では右側)に布多天神があった。WEBで見たら、大正寺とある。布多天神の向こう側(写真では左側に向かうところ)には、電通大がある。東京オリンピックのとき、ほぼ50年前、アベベがここを走ったのだなと思った。

調布駅の南側向こうでは、住友不動産が、マンションを建てていた。

調布駅の南側向こうでは、住友不動産が、マンションを建てていた。写真は、南側公園の向こう側で建設中のマンションを、南側公園から撮ったもの。マンションの手前には、バス停留所群が見える。ここは、便利になった場所だ。鉄道が変わると、地域の様相も変わる。不動産会社も、その一翼を担っている。

「調布」駅を地上に上がると、線路の上はまだ工事をしているが、南側の駅前公園とバス停群は広かった。

「調布」駅を地上に上がると、線路の上はまだ工事をしているが、南側の駅前公園とバス停群は広かった。写真は駅前公園を撮ったもの。公園は広くて、大きな木も植えてあった。バス停群は、写真の向こう右側になる。不便だった、40年以上昔の調布駅を思い出した。

昨日(6月25日)16時前、京王線「調布」駅に行った。

京王線「調布」駅は、様変わりしている。地下化され、「上り」と「下り」のホームは別の階だ。「下り」が地下の上の階。「調布」は便利だ。「新宿」駅から特急で、「明大前」の次の駅が「調布」である。20分もかからないで、来てしまった。

この先、「八王子」方面と、「多摩センター」方面にわかれる。特急に乗るため、待つ人は多かった。写真は、「調布」駅の「八王子」方面の特急を待つ人たちを、撮ったもの。

昨日(6月25日)、調布で人と会うため、京王線「新宿」駅に向かった。

昨日(6月25日)、調布で人と会うため、京王線「新宿」駅に向かった。上の写真は、15時30分少し前の京王線「新宿」駅の改札を撮ったもの。

昨日(6月25日)13時前後、西新宿界隈では、雷がなって猛烈に雨が降った。

昨日(6月25日)13時前後、西新宿界隈では、雷がなって猛烈に雨が降った。前後1時間ぐらい。上の写真は、オフィスのあるマンションから、南側の外を撮ったもの。アルミサッシ越えに撮ったので、アルミサッシについた、水滴が見える。右側に少しだけ縦に見える、建物があるが、これはNTT東日本の本社bいる。

2014年6月25日水曜日

読書感想文 (180度の大激変!・・・船井幸雄)を、私は2008年7月21日に書いた。

今、世の中は大きく変わっていると思う。そのときを見ていたように、船井幸雄さんはこの本を書いた。以下は私が2008年7月21日に書いた。私の読書感想文です。
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読書感想文 (180度の大激変!・・・船井幸雄)

<船井幸雄さん>

本屋に行ったら、この本があり、買いたくなったので買いました。船井幸雄さんの本には人間の生き方、仕事の進め方について良いことが書いてあるので、年に何回かは買っています。

しかし、最近は精神世界のことが多く書いてあり、分からない精神世界にはまると私が自分を失いそうなので、最近は年に数回に限定して船井幸雄さんを読むことにしています。この前船井幸雄さん本を読んだので、もうしばらくいいはずなのですが、本は癖になるのでしょうか。また、買ってしまいました。

船井幸雄さんは1933年1月大阪府生まれで京大農学部へ行って、経営コンサルタントになり、一部上場企業の船井総合研究所の創立者になりました。本を沢山書いており、私は本屋で船井幸雄さんを知り、本を継続して読んでいます。船井幸雄さんは、昨年から病気ですが、すべては「必然」「必要」「ベスト」で、病気もその一つと考えているそうです。

<「占い師」兼「呪い師」こそ、リーダの条件--なにそれ(私の影の声)>

目次は次のようです。

第1章        素直になると、本当の情報が集まってくる
第2章        この世のすべては、「必然、必要、ベスト」?
第3章        「占い師」兼「呪い師」こそ、リーダの条件
第4章        各自の使命は、興味や特性からわかる
第5章        勉強し、世のために尽くし、自分の責任で生きよう

船井幸雄さんの本で、多くの章のタイトルは見慣れていますが、第3章のタイトルは初めて見ました。でも、このタイトルは私も最近感じていることです。『「うらないし」けん「まじないし」こそ、リーダの条件』。60歳を過ぎて、私の人生が気楽になったこともあるのでしょうか。すぐそばで経営をしている人を、見ていることが出来るからでしょうか。最近はいつも、経営のことを考えるようになりました。

経営者は、みな苦労しています。経営者は人一倍苦労していると、思うようになりました。そして言えることは、経営者は最後のところ、論理を越えて考えているということです。普通の人より、濃密に人間を生きているのだと、思うようになりました。そして経営者が会社の将来を考えるとき、どうしても、第3章のタイトルのようなところいくのです。経営者には、人間力が求められているのでしょう。

船井幸雄さんは、いつもより良く生きるように努力していると思います。それが、この本の各章のタイトルにつながっていると思います。私も60歳を過ぎて欲がなくなってきたので、あとはできるだけ、世の中の役に立ちたいと思いますが、船井幸雄さんの言葉は、良い指針になるので、言われるように生きたいと思っています。

でも、『 「占い師」兼「呪い師」こそ、リーダの条件』は、思ってすぐ出来るわけではありません。良い占い師とか、良い呪い師になるためには、努力がいります。社会に関する、深い観察が必要です。リーダは良い人間になることが、要求されるているのだと思いました。自分の生活・経験を振り返って、良い人間でなかったことに反省をします。が、今からでも遅くないので、良い人間になるよう、これから努力してみようと思いました。この先が長くても、やり続けようと思います。

<ホ・オポノポノが出てきた>

そこに、ホ・オポノポノが出てきました。順番に読みます。そして何故か、凄く感動しました。自分(八木)がどの部外の訓練からも言われること。それは、「人のせいにする」とか、相手を説得できていないのに、「説得を繰り返している」ということ。訓練では、そこから抜け出せと言われているのに、自分はやっぱり抜け出せない。

一言で言えば、自分の拘りから離れられない自分を、感じることが多いのです。が、ホ・オポノポノをは、ごく当たり前にそこを抜け出していました。「ホ・オポノポノ」は、ハワイに伝わる究極の「人間正常化ノウハウ」です。実践したのは、ハワイのヒュー・レン博士でした。レポートしたのはその知人のジョー・ヴィターレ博士です。

このほかにも、船井幸雄さんのこの本にはいいことが、沢山書いてあったと思いますが、ここに一番感動したこと。そしてこんなことがあるのだろうかと今も不思議に思っているこたから、この読書感想では「ホ・オポノポノ」だけを取り上げたいと思います。

<ホ・オポノポノに感動した>

2年前に、ハワイに住む一人のセラピストの話を聞いた。その人は触法精神障害者(刑法罰に問われたものの、精神障害を理由に不起訴、減刑、あるいは無罪となった人のこと)の病棟に収容されていた人たち全員を、誰一人も診察することなく癒したそうだ。

その心理学者は患者のカルテを読み、自分がどのようにして、その人の病気を創りだしたかを理解するために、自分の内側をみたのだそうだ。彼が自分自身を改善するにつれて、患者も改善したという。

・・・以上は、本の引用ですが、縁もゆかりもない人が起こした事件について、自分自身を改善して直すなんて、自分は考えることが出来るのだろうか。

以下、つづけて本からの引用です。・・・彼の名はイハレアカラ・ヒュー・レン博士。私たちは最初の電話でたぶん1時間は話しただろう。彼にセラピストとしての仕事の全貌を語ってくれるようにお願いした。彼はハワイ州立病院で4年間働いたことを話してくれた。

・・・レン博士は一度も患者を診なかったのだそうだ。彼は診療室を持って患者らのファイルに目を通すことには合意した。それらのファイルを見ながら、彼は自分自身に働きかけた。彼が自分自身に働きかけるにつれて、患者に癒しがおきはじめた。「2、3ケ月後には、以前は手足を縛られていた患者達が、自由に歩くことを許可されていました」と彼は言った。「多量の投薬が必要だった人たちは、投薬をやめつつありました。そして退院の見込みのなかった人たちが退院していったのです」。

・・・私は畏敬の念に打たれた。「それだけではありません」彼は続けた。「職員が仕事に来ることを楽しみ始めたのです」・・・これだけでは何のことか分からないでしょうが、レン博士は患者のファイルを見ながら一人一人に「thank you」と「I love you」そして「Im sorry」を、繰り返し言っただけで、それだけで患者はみんな正常になったというのです。そしてこれが「ホ・オポノポノ」というハワイに伝わる伝統的な秘法だということでした。

<「感謝します」「ありがとう」と言う言葉と、ホ・オポノポノ>

私は、ここを読みながら、ツキを呼ぶ魔法の言葉を思い出しました。「感謝します」「ありがとう」。今、52歳の日本人がユダヤを旅したとき、ユダヤのおばあさんから教えてもらった言葉だそうです。そしてそれを言ってから、世のなかがいい方向に変ったそうです。

レンさんは次のように言っています。「“自分”しかないんです。“外側”というものは何もないのです。存在するすべては“自分自身”なんです」。存在するすべてが“自分自身”なのかな。私(八木)はまだ疑っている。しかし、その疑いは前よりあやふやになってきた。もう一度考えてみよう。時間をかけて考えてみよう。当たり前が当たり前でないかも知れない、と思うようになってきたから。この「ホ・オポノポノ」は私を考え込ませた。

2014年6月24日火曜日

インフラ、重機監視等におけるGPSの活用

私は40年少し前、あるエリアの電電公社のケーブルをどう張回して、電柱をどこに建てるかを、設計していた。そのとき私は、どこに電柱を建てるか、に一番頭を使っていた。電柱を考えるとき、電柱の上に乗る、ケーブルや吊り線の張力の前後左右のバランスを見る。だから、今も電柱を見ると、上のケーブル、吊り線の張力のバランスを見る癖が私にはついてしまった。

写真は、私のオフィスのマンションの周りを撮ったものである。夕方19時を過ぎてしまって撮ったので、暗くなってしまった。これらの電柱の位置を示すのに、GPSで測位したデータを使うのが、私はいいと思っている。それがどのよう形で、実現するのか。実現すれば、電柱は全国にあるから、対象は多い。下はGPSの、日本のインフラ等への利用例である。」
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GPSは、地籍測量での利用、建築許可申請での利用、インフラ設備監視、大型機械監視、行動する動物の監視、テストコースでの走行車の位置管理、港のコンテナの位置管理、あるいはインフラ設備の設計など、これからその応用は、沢山出てくると思いますが、私の聞いた範囲で利用を整理します。

<地籍測量でGPSを利用する>

地籍とは、比喩でいえば土地の戸籍のことです。登記所の地籍を表す公図は、更新されていないものは、明治時代の地租税改正時のものが使われているそうですから、実態に即してないものが多く、土地取引などでトラブルが発生することが多いそうです。地籍測量は、地方の自治体の責任で進めることになっています。

地籍測量の進捗率は、日本全体では50%です。農地が進んでいて、農地だけで見ると70%。人口密集地では25%で、人口密集地では、あまり進んでいませんね。東京や首都圏はどうなのでしょう。この地籍測量に、高精度GPSが使われているようになっています。

造成地で土地の境にある、あの赤い杭が地籍測量の成果ですね。それが10cmずれていたら、人口密集地では、隣人同士が大いにもめるでしょうから、人口密集地で地籍測量がなかなか進まないのは、なんとなく理解できますね。

地球は100年単位、1000年単位の長期でみれば、陸上部も液体ですから、土地の位置も時間がたてば、正確にいうと、動きます。2011年3月11日に起こった、東日本大震災では、宮城県では最大5m動いているし、関東でも数十cm動いているそうです。隣人同士の利害も絡みますから、地籍での位置は正しければいいというものでもないですね。

だから位置は、今はかったもので緯度経度を言うのではなく、セミダイナミックスという手法で、元基に直して使っているのです。今の元基は、国土地理院が2011年測地成果で発表した、2011年5月14日のものになっています。ですから、基準点(電子基準点を含む)をもとに測量した人が緯度経度をいうとき、2011年5月14日なら、「緯度経度は○○°と×××°です」と言っているのと同じです。

<コマツのKOMTRAXは有名になりました>

世界中でコマツの重機を借りると、その重機の位置情報とメンテナンス情報が、現場の重機からコマツのセンタに送られます。それでコマツのセンタにいると、世界中でコマツが重機を貸しているお客さまの、重機の稼働状況が分かるようになりました。一方お客さまはコマツから、随時、遠隔でメンテナンスのサポートを受けられるので、便利なのです。勿論、位置情報はGPSで分かります。

これのもう一つの、ポイントは通信です。携帯電話が通じるところでは、携帯電話網を使い、携帯電話が通じないところでは、衛星通信のオーブコムを使っています。これで各重機が、世界中と通信でネットワークできるのですね。今では30万台以上の重機が、コマツのこの方式で運用されているそうですから、1台1千万円としても合計3兆円ですか。凄いですね。日本の他の重機メーカも似たシステムを作っていますが、コマツの後塵を拝した格好です。

<津波予測のため潮位を測る>

津波をいち早く知るためには、海の外側の潮位の変化を知る必要があります。国土交通省港湾局は、日本の15箇所の沖合約20kmのところに16トンの波浪計ブイを設置していますが、これは今後少しずつ増えていくのでしょう。このブイは海底のアンカーに、直径10cm程度のチェーンで繋留されています。

勿論、ここで使われているGPSは、高精度GPSで、上下方向は、水平方向の倍の誤差があるので、誤差が4~6cmぐらいでしょうか。高精度GPSは、陸上の基準局GPSと、波浪計ブイの移動局GPSでそれぞれ測定し、その結果を通信しあって、精度を高めています。高精度GPSで使われている測量用のRTK-GPSでは、基準局と移動局は20km離れるのが限界といわれてきました。そこで沖合遠方に設置するためには、新たな高精度GPS測位方式が必要になります。

2011年3月におきた東日本大震災のときは、沿岸に津波が来る10分前に、予測より大きな津波がくることを発見できたそうです。しかし残念ながら、津波後しばらくして陸上の電源が切れて、通信が出来なくなってしまいました。だから、最初は生かせたのですが、途中からデータが使えなくなっています。

東日本大震災の経験で、上の2つのことが分かりました。一つ目は海岸から遠方でも、波浪計ブイの正しい潮位がわかるGPSの測位方式が、必要なこと。それと二つ目は、震災対策のため方式の違う通信2ルートを、確保することが必要なこと。

一つ目の問題を解決するため、日立造船では、アメリカの会社と協力して、1000Km離れていても、RTK-GPSと同程度の高精度(誤差が少ない)が得られる方式を開発しました。これを採用することで、波浪計ブイを沖合遠方に設置することができます。

二つ目の問題は、従来の通信方式に、衛星通信を加えることで解決できると思います。

これらの波浪計ブイを、太平洋の海のあちこちにおいて、「太平洋の津波の情報を、太平洋沿岸諸国に(勿論日本も含まれます)知らせよう」と言う構想も出てきました。しかしこれは国際的に、領土をまたがって設置しなければならないので、太平洋沿岸諸国の了解も必要ですし、誰が費用を負担するのかという問題もありますね。

<斜面の監視>

斜面の監視を、高精度GPSを使って行うシステムも作られています。1つ基準局を作れば、あとは移動局が複数あればいいので、費用は高精度GPSの費用に較べれば相対的に低くなりました。しかし、これが普及するかどうかは、ニーズとの兼ね合いで、かかる費用が問題なのでしょうね。

斜面ということで、いくつか問題もあります。斜面なのでGPS衛星が、全部は捕まえられないこと。また、周囲に木などがあって、マルチパスのGPS電波が発生しやすいこと。人間の知恵で、これらをどこまで安くクリアできるかは、考えなければなりませんね。

得られた結果を、通信で集めなければなりませんが、これには小電力無線が使われていることが多いようです。電源はソーラバッテリー。ソーラバッテリーには、電源の大きさとしては限界がありますから、常時通信ではなく、イベントドリブンと定期ドリブンを組み合わせて、間歇的通信にしています。

いい点は、観測点は定点ですから、GPSの長時間観測法が使え、誤差2mm程度の高精度が実現できることでしょう。

<動く動物のGPSによる追跡>

動く動物の追跡にGPSが使われます。日本での主体は大きく、3つの省が関係してきました。それぞれの用途が分かると、目的がだいたい想像できますので、用途を次にあげてみます。①農林水産省――鳥獣被害対策ソフト事業用、②国土交通省――環境アセスメント調査用、③環境省――希少動物絶滅危惧種生態調査用。

GPSで分かった動物の位置を、私たちが見るポイントにリアルタイムで通信を使って送るか否か、で方法は分かれます。通信をしないと、GPSとそれを記録するロガーだけなので、安価に軽く小さくできました。これだと取り付けた動物に、あまり負荷がかからないのです。しかし、回収方法が問題となりました。WEBで見ると、そこには悲喜こもごもあるのが分かります。

通信を使ってリアルタイムで、動物の位置が分かるととても、動物の今の動きが良く分かりました。しかし通信のための機器は、電源を含めて大きくなるので、大型動物にしか向いてないようです。通信方式も対象の動物の動く範囲によって、変りました。一定のエリア内で動く、例えば放牧された牛なら、小電力無線方式でいけます。鳥のように渡りをするなら、衛星通信を使わなければなりません。

これまでGPSが付けられた動物は、WEBに載っているものを見ると、牛、猿、鹿、熊、たぬき、鮭、アホウドリなどでした。たぬきは、建設される高速道路で、生活がどう分断されるのか、環境アセスメント調査として調べられたようです。

<港湾のコンテナヤードでの、コンテナの位置管理用のGPS利用>

コンテナは大きくて重いものですし、積み上げるので、下の方につまれてしまうと、その位置が分からないようです。それで、コンテナを運ぶクレーンに、高精度GPSを取り付け、コンテナを積んだ位置をデータベース化する方法をとったところがありました。

<自動車テスト走行コースでのGPS利用>

自動車のテスト走行では、猛スピードで走ります。これをGPSが追いかけきれるかという問題があります。時速288Km/Hとすると、1秒間に80m進みます。昔の私の記憶では、そこではGPSは、1秒間に何回計測されるのかが、問題になりました。1秒間に20回計測できるようですが、それだと1つの計測から、次の計測まで4m進みますが、あの話はどうなったのでしょう。

またGPSを使って、テスト走行コースでの走行ルートが分かれば、次回からは無人ロボットで、走行できるので、繰り返し実験は容易にできるようです。WEBを見たら、そういうシステムを売っているところもありました。

<インフラ設備設計でのGPS利用>

インフラ設備としては、マイナーになりますが、私の個人的な経験です。私は40数年前、当時の電電公社のあるエリアで、電柱をどこに建てるかの設計をしていました。その建てる場所を指定する、電柱間隔は、誤差が1m以下です。だからメジャーを使って、電柱の建設位置を測ることは、多くありました。

また電電公社のマンホールの位置は、誤差が10cm以下です。私は電電公社の土木の人が書く図面を、ほれぼれして眺めていましたが、確か位置の誤差は10cm以下でした。これらの距離は、電柱間、あるいはマンホール間を敷設するケーブルの長さに影響するので、大事なのです。例えばマンホール間を敷設する太いケーブルは、だいたい1万円/mでした。これの長短に影響するのです。

一方、誤差1m以下は、普通のGPSでは実現できません。しかし高精度GPSが、安価に普及すれば、誤差1m以下は簡単に実現します。誤差10cm以下も、比較的簡単に実現しました。だから高精度GPSは、インフラの設計に使えるのではないかと、今も思っています。

電電公社は全国で約2千万本の電柱を持ち、電力会社は全国で約4千万本の電柱があると思います。インフラ企業としては、「電話」、「電気」のほか、大きなものとしては、「ガス」、「水道」、「下水」の企業があります。GPSには、空が見えないと計測できない等の、弱点はあります。しかし、このGPSがこれらインフラ企業で使われるため、その弱点を乗り越えて欲しいものだと、思います。そしたらGPSのビジネスとしての、ロットも大きくなるのではないでしょうか。

インフラ設備は、このほかにも、道路、トンネル、橋梁、河川等沢山あるので、GPSが使われる余地は、まだまだ多いと思います。この記事を書きながら、GPSがもっとたくさんのインフラ設備の構築に、使われるといいなと思いました。

「Iさんの物語」-建築現場では、今も鉄が主役である。日本が鉄製造で世界一を目指した、50年前は、様々な日本人の汗があった

日本でまだまだ行われている建築の現場では、今も鉄が主役だ。写真は、JR「新大久保」駅と「高田馬場」駅の間の、高層マンションの最初一棟の建築現場を撮ったものである。日本が、世界の「鉄製造」で、世界を牽引する立場に立つまでには、以下のような50年前の、Iさんたち製鉄マンの奮闘があった。
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Iさんの物語  目次
はじめに
鉄の時代
N製鉄所入社、首都圏以外の他県へ赴任
中国地方内製鉄所の設計
日本で、さまざまな企業の人が集まって、鉄の設計を整理
鉄の生産技術のさらなる発展―自動車向け鋼板等
海外への売り込み
情報の時代
スーバコンピュータへの挑戦
未来のスーパコンピュータを考える
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はじめに
(前に続く)
(5)究極の工業化時代(パラダイムシフト前)の製鉄の現場
工業国家の工場では、高圧、高温度、高重量、高速度など、人間の世界の想定外の事項を扱っています。そういう意味では私たちの常識で考えると、高炉の生産工程など想定外のことばかりでした。製鉄ラインを作るに当たり、リスクを怖がって、チャレンジせず、リスクを安全率でカバーしようとすると、もの凄い高コストになってしまいます。

安全率でなく思考で安全を確保し、その結果製造ラインのコストダウンが諮れると、計算上の効果は大きいものでした。全製造ラインの製造コストが、5000億円とすると、そのコストダウンが5%でも、25億円のコストダウンとなるのです。

「安全率でカバーするのでなく、思考でリスクをクリアする」。私たちの高度成長期のチャレンジは、リスクへの挑戦でもあります。だからリスクは常に、私たちの頭から離れませんでした。「どこにリスクがあるか」。「私たちの考えに見落としはないか」。「リスクが表面に現れるときは、どういう形であらわれるか」。

私たちが最初、中国地方の製鉄所で高炉の設計をしたときは、とにかく「世界一の高炉を作ろう」という言葉が、作っているものの合言葉でした。世界一の工場を作るとは、今までやったことがないことをやることです。だから、リスク管理が最大の仕事でもありました。リスクが頭から離れない。そのために、当時最も進んでいたアメリカではどうしていたかも、徹底的に調べました。

今思えば、周りの人々のバックアップがあって、リスクに果敢に挑戦したと思います。当時の課長は、私をバックアップしてくれました。前の横浜では、古い製鉄所の保守費が年間50万円だったのですが、新しい現場での保守費を年間1億円(今の10億円ぐらいに相当するでしょうか)に増やし、こういいました。「リスクにチャレンジするのはいい。しかし、リスクが現れたときは、この金でなんとかしろ」。

私が、要求スペックを作ると、「Iがこんなことを言っている」と、まわりの先輩諸氏は反対しました。アメリカの工場の実例を参考にしながら、資料を作るのですが、納得してくれません。最終的に課長のところへ行くと、課長は私を支援してくれて、さらに失敗のときの保守予算と言う「体捌きのスペース」もとってくれました。

私に反対した人たちの存在が、初めてのことをする緊張感を、私も含めた会社全体に作ってくれたと思います。先輩諸氏は、野心満々であった私のいいブレーキ役に、なってくれました。そのときの先輩諸氏を、今ありがたく思います。

(6)分権をせざるを得なかった現場と私のリスクへの挑戦

私のような新米に、大事な部分の設計を預けるほど、少ない人数で設計に当たりました。何せ砂浜を工場に変えるのです。建設当初の設計チームは50人ぐらいで、その半分以上は土木屋さん、建築屋さんでした。

製造ラインの設計は、私の7年先輩が2人いて、その人たちが20の工場の製造ラインの
建設を一手に取り仕切っていたのです。だから、納入メーカに「いかに智恵を出させるか」の方向でエネルギーを使っていて、先輩諸氏の二人では、時間的に細部を考えられませんでした。そこに、私が細部に拘ったラインを立案していきます。私の立案に先輩諸氏は、危なっかしくて、耐えられなかったのでしょう。

でも細部にこそ競争力の原点がある、と思っていた私が折れずにいると、先輩から課長に上申されます。そこで方向が決められました。なにせ原理原則を大事にする課長に、私は世界一ものを作れと言われていたのです。そういう私が立案したものですから、「キチンとやれ」と言いながら、課長は結局私の立案を通してくれました。そして当時の製造ラインの常識から見れば、リスクの大きかった私の立案が、当時の製鉄能力世界一を達成できた、中国地方の製鉄所に繋がって行ったと、私は思っています。

(この後続く)

建物は、まだまだ日本では建築されて行く。その現場では、今も鉄が主役である。

建築現場では、建築許可証等も張り出されている。そして大きな建築工事現場を見たら、一番多く張り出されていたのは、鉄骨製作工場概要だった。写真には鉄骨製作工場概要は5工場分しか写せなかったが、全部で8工場分ある。そうか、今も大きな建築現場では、主役は鉄なのかと思った。

注意して見たら、一工場は中国の工場だった。そうか、こうして中国の鉄骨工場も進出してきているのか。建築現場で使うには、質が十分と考えられれば、だんだん安さで、ここも中国のものになっていくのだろうな、とも思った。日本が、世界の先頭を切って、鉄の製造技術にお金を投資するのをやめた瞬間に、中進国、後進国に製造の主体が移っていくのはやむを得ないのだろう。時代が変わるのには、10年単位で変わっていくのだろうが、もうその流れは加速されるばかりだと思う。

私は2008年7月15日、読書感想文 (プロフェッショナルの原点・・・P.F.ドラッカー)を書いた。

角筈図書館に行ったら、当然だけどドラッカーの本があった。それを写真に撮ったのが上の写真。私は、2008年7月15日、読書感想文 (プロフェッショナルの原点・・・P.F.ドラッカー)を、次のように書きました。

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読書感想文 (プロフェッショナルの原点・・・P.F.ドラッカー)

ドラッカーさんは、1909年オーストリアに生まれで、2006年アメリカ・カルフォルニアの自宅で老衰により死にました。10代のころに親の紹介で精神分析のフロイトに会い、ドイツのヒットラー、ゲッペルスにはインタビューをし、記事も書きました。しかし、その書いたものが、ヒトッラーらの逆鱗に触れるであろうと予測し、戦争前イギリスに移住し、1937年結婚するとともに、アメリカに移住した経済学者で社会学者です。

本を沢山書き、日本でもその本は沢山売れましたが、私も愛読者の一人といえると思います。「分権化」「民営化」「知識労働者」等は彼の造語だそうです。会社で生きている人を見、考えるのが好きで、戦後、発展した日本の人にも感心し、日本でも沢山のインタビューをしました。

彼の言によると、「明治維新」は、世界の中でも19世紀最大のイベントなのだそうです。それから私は、「明治維新」に興味を持ち追っかけるようになったのですが、「明治維新」は私には、今だにわかりません。それは伊藤博文なのか、井上毅なのか。大久保利通なのか西郷隆盛なのか、渋沢栄一なのか徳川慶喜なのか、勝海舟なのか小栗なのか、緒方洪庵なのか、吉田松陰なのか、坂本竜馬なのか明治天皇なのか、木戸孝允なのか高杉晋作なのか、山形有朋なのか福沢諭吉なのか、それともフリメーソンであったという長崎のグラバーなのか。

おおぜい、小説になるような有名な人が沢山いるのが日本らしいと思います。一橋慶喜に仕えたわりに、渋沢栄一は尊王攘夷の人だったのですね。結局財界人として名を成したのも、渋沢栄一の尊王攘夷(日本の精神的中心は天皇であり、そのころ羽振りを効かせ初めていた外国は皆、競争相手だという思想)に、原点があったのかもしれない。渋沢栄一は論語も好きで、座右の銘にしたらしい。日本人の偉人は全部、明治維新の周りをうろうろしただけで、その時その時の個人の事情で動いたような気がする。分からない明治維新はさておくとして、その明治維新を「世界史的にも凄かった」と言った、ドラッカーは日本人に最も影響を与えた外国人の一人だと思う。

この本はドラッカーの言ったことを、体系的に書き並べただけだが、これを読んで私はドラッカーの影響を全面的に受けていると、改めて思った。私はドラッカーの本が話題になるたび、本屋にいきその本を買っている。そしてこれまで、私の意見だと思っていたことは、大抵、ドラッカーを読んで私が理解できたところだった。だからこの本を、えスラスラ読めたのだと思う。

ドラッカーはとにかく、サラリーマンの気持ちが良く分かっている。今読んでも納得感がすごくあるし、私が最初に読んだときは凄く感激したのだと思う。ドラッカーの言っていることは、いつでも言える一般的なことだ。実際の仕事の悩みの解決にならないかも知れないが、この当たり前のことができていなくて、転ぶ人が多いのは事実だと思う。本質的なことで転ぶ前に、ドラッカーの言っている当たり前のことで、転ぶ人が多いのだと思った。だから本当は、当り前のことに本質があり、私が本質だと思っていることは、その問題の特異現象なのかもしれない。

今になってこの人を読むと、私の意見だと思っていたのがドラッカーの意見だということが良く分かる。私がサラリーマン生活を送るに当たって、一番参考にしたのはドラッカーと、もう一人は1937年生まれの日本人、西順一郎さんだと思う。勿論、山本七平さんも、司馬遼太郎さんも、塩野七生さんも、宮城谷昌光さんも、船井幸雄さんも、その他大勢の人を参考にしたと思うが、この二人はサラリーマンを良く分かっていたと思う。

この本は、2ページで一つのことを述べている。ドラッカーがどこかの本で言ったことと、「とるべき行動」と「身につけるべき姿勢」が書いてある。目次をみるとこの本のいいたいことがすぐわかってくる。それは次のとおりである。

1            成果をあげる能力は習得できる(4項目)
2            なんじの時間を知れ(12項目)
3            いかなる貢献が出来るか(18項目)
4            強みを生かす(36項目)
5            最も重要なことに集中する(9項目)
6            意思決定を的確に行う(15項目)
7            成果をあげる能力は習得しなければならない(1項目)

強みを生かすことが、サラリーマン生活を送る上でもっとも大事だと、この本は言っている。それは、船井幸雄さんの言っていることにも通じるが、私もその意見に最近はなっている。その原点はここにあったのかと、久しぶりにドラッカーを読んで思った。

私の強みは何なのか。私のサラリーマン生活40年を通じて、それを私は考え続けてきた。そして60歳を過ぎて、ようやくそれが分かってきたような気がする。この人の本は私に、考える方向を与えてくれた。この人は、私たち日本人に波長が合うのだと思います。ドラッカーがそこにいたということは、私たち日本人にとって幸せだった。

今日(6月24日)、朝8時、私のいるマンションの下の建築現場では、もう仕事が始まっている。

今日(6月24日)、朝8時、私のいるマンションの下の建築現場では、もう仕事が始まっている。トンテンカンテンという、鉄を叩く音がしたので、窓の外を見ると、この風景があった。そうか、外の仕事は、太陽が上がるとともに始まり、太陽が沈むとともに終わる。

朝8時には工事現場にいるということは、事務所で7時には準備を始め、もし通勤してくるとすると6時前には家を出ている。これがリアルワールドの世界だ。そしてコンピュータ、あるいはインターネットの世界でが、バーチャワールドが作られている。この世界は、夜作られても問題がないそしてこのバーチャルワールドとリアルワールドが繋がっているのだ。

でも世界は、リアルワールドから始まる。それは、私たちの自然な世界が、基礎となってきた。私たちは、バーチャルになじんで、リアルを忘れているこも知れない。朝、早く働き始める人を見て、そう思った。

2014年6月23日月曜日

私は、朝の食事を規則正しくしている。

上の写真は、私の今日(6月23日)の朝食。女房が生きていたときも、女房が出してくれた、朝食を規則正しく食べていたが、女房が死んでも規則正しくしている。私は、ほぼ7年前、長野で脳溢血で倒れ、頭蓋骨を外す手術をした。それ以来、その「病気をしたという事実」が、私を拘束している。

女房が1年半前、死んだとき、娘に「お父さんは、何を考えているのよ」と言われた。「お父さんとは、縁を切りたい」とまで、言われている。それまで脳の手術したのに、ときどき酒を飲んでいた。娘にキツイことを言われたので、今は、酒を飲むのをやめている。そしたら、体の調子が良くなった。

写真を説明すれば、次の通り。右上は梅干し。これは毎朝、食べている。右下はお茶。これも「一杯のお茶は、難逃れ」だから、毎朝飲んでいる。左下は、納豆に葱、オクラ、鰹節をいれ、練生姜とたれで味付けしたもの。左上は、2週間分の料理の下ごしらえをしたものに、肉、卵、しちゅーを加えて煮たもの。このシチューは、味噌になったり、カレーになったりしている。 


月曜日、朝6時半前の、NTT東日本本社ビルとオペラシティビル

今日(6月23日)月曜日、朝6時半前の、NTT東日本本社ビルとオペラシティビルを写真に撮った。それが上の写真。月曜日の朝早くは、もっとも企業が休んでいるときなのだろう。電気はどの窓にもついていなかった。

そうか企業を離れると、社会の別な側面が見える。だからと言って、企業で働く人たちに、企業をやめてもっと自由に生きましょうとは、私は言えない。みんな、そのときそのときで、そのときの自分に夢中で生きて、それが自分の修行になっている。サラリーマンは、その修行を企業と言う場でしているに過ぎない。企業には、同じような環境の仲間が大勢いるので、仲間の生き様は参考になっている。それが私の企業生活だったな。、

2014年6月22日日曜日

渋谷区民スポーツセンタのプールで、12往復(600m)泳いだ。

プールの外から、ガラス越しに写真を撮った。それが、上の写真。それから着替えて、プールに入り12往復(600m」)したところで、休憩の笛がなった。そこで私は泳ぐのを終えた。、

緑道で、大田区の私のマンションからの、通勤路に植えてあった木、花を見た。

緑道を歩いていたら、大田区の私のマンションからの、通勤路の途中に植えてあった木、花を見た。名前はどうしてもわからなかったのだけど、ここでは名前の入った、看板があった。そうかアベリアというのかと思った。

今日(6月22日)14時過ぎ、初台を出て、玉川上水あとの緑道を通り、渋谷スポーツセンターのプールに行った。

今日(6月22日)14時過ぎ、初台を出て、玉川上水あとの緑道を通り、渋谷スポーツセンターのプールに行った。雨上がりの緑道を」歩くのは、気持が良い。いろいろな花が咲く花壇があったので、写真に撮った。アジサイが咲いている。右下は紫蘭だと思う。アジサイの左には、大きなユリがさいていたが、写真ではわからない。


昨日(6月21日)14時から17時まで、ボランテア勉強会「流通楽座」で、「100年単位で考えるクルマ」の話を聞いた。

写真に写っている3階で、ボランテア勉強会「流通楽座」が、昨日(6月21日)14時から17時まで開かれた。。「流通楽座」は、このビル3階の道路側にある会議室で、毎週第3土曜日に開かれている。昨日は14名が参加した。ビルの道路を挟んだ反対側には、新宿公園があり都庁がある。

昨日の演題は、「100年単位で考えるクルマ」。この会で語られることは、たいてい気宇壮大で良い。毎回、私の目から鱗を落としてくれる。昨日も面白かった。ときどき、日常と違った切り口で、ものを見るのは、面白いなと思う。

ボランテア勉強会「流通楽座」に出席するまえ、ワシントンホテルの「ゆで太郎」で、蕎麦を食べた。

西新宿のワシントンホテルの地下には、蕎麦を美味しく、安く食べさせる「ゆで太郎」がある。ここが出来てから、前はほぼ毎日来ていたこともあった。美味しく、安く、本当はおなか一杯食べられるから。

昨日(6月21日)は、久しぶりでここの蕎麦を食べた。豚肉丼と冷たいそばで、500円。おつゆに、葱と山葵をいれ、冷たいそばに七味唐辛子をかけ食べる。10年ぐらい前山形で、蕎麦をたべたとき、唐辛子をかけて食べたが、おいしかったので、それ以来、蕎麦を食べるときは唐辛子をかけている。豚肉丼も食べ、蕎麦湯を飲んで昼食は終わり、ボランテア勉強会「流通楽座」に出席するため、会場に向かった。

関係ない話だが、なぜかいつも、蕎麦に唐辛子をかけるとき、呉善花さんが書いた「わさびと唐辛子」という本を思い出す。日本と韓国の文化の差を書いた本だが、その切り口のうまさに、思わず夢中で読んでしまった。それから私は、呉善花さんのファンになってしる。李御寧の「 縮み志向の日本人」も面白かったが、そのとき、な韓国人の書く日本論は、何故、面白いのだろうと思った。

昨日(6月21日)、ボランテア勉強会「流通楽座」に出席するため、新大久保から新宿に戻ってきた、

昨日(6月21日)、ボランテア勉強会「流通楽座」に出席するため、新大久保から新宿に戻ってきた。写真は、12時30分ぐらいのJR「新宿駅南口」付近を撮ったもの。土曜日昼間の、新宿は人が多い。人が多いって、歴史上、あちことで見られる状況ではないから、こういう風景が、私たちの日常になっているって凄いことなのかも知れない。

新しくできたJR「高田馬場」駅から10分の、JR山手線の東隣道路のところでは、住友不動産が高層マンションを建築していた。

昨日(6月21日ー土)朝、JR「新大久保」駅から、「ゆる体操」教室の会場である大久保スポーツプラザに向かったとき、大久保スポーツプラザの向こう(「高田馬場」駅側)に、建築中の高い建物が見えた。それで「ゆる体操」教室が終わって、見に行ってみることにする。見に行ったら、住友不動産がたてている、高層マンションだった。

ここは、長い間工事中だったが、これを建築していたのか、と思った。こういう高層マンションが、これから何棟もできるのだろう。それぐらい、ここは広い。建物工事は、基礎部分を作るのに時間がかかるが、上が見え始まるとできるのは早いから。

ここはJR山手線の東隣り、さらに東側には外山公園がある。マンションの敷地と、外山公園に楔を打ち込むような感じで、保善高校がある。確かにここは、マンションには最適だ。なるほど、不動産会社は、数十年単位で、国や都や区の都市計画と付き合っている。そして、儲けてもいる。

大久保スポーツプラザを出て、前の道路を歩きながら、東京は少しづつ、しかし確実に変わりつつあると思った。

ゆる体操の会場の、大久保スポーツプラザは、JR山手線の東側隣、「新大久保」駅から「高田馬場」駅の中間にある。大久保スポーツプラザを出て、JR山手線と並行して、その東隣を走る道路に出た。写真はそこを撮ったものである。が、全体に黒くなってしまった。なぜかな。

車は道路を走っている。その木の向こうは、JR山手線。手前側の歩道には木がある。この歩道を歩くのを、私は好きだ。歩道の木が、私達を慰めてくれる。車が走っている道路は、私がここに来始めてから、道路工事をしていてできたものた。「高田馬場」駅方面から、もう「新大久保」駅のところまで繋がている。今は「新大久保」駅から「新宿」駅方面に向かって、少しづつ道路を延伸し始めた。

ここの道路工事をみながら、思う。道路計画は、10年単位、20年単位で進められていく。私たちの体感では、変化は遅々としている。しかし、何年か経ってみると、そこが変わってきた。東京のアチコチで、それが行われている。各区の都市計画課に土木課か。東京は少しづつ、しかし確実に変わりつつあると思った。

昨日(6月21日ー土)、大久保スポーツプラザ和室で、ゆる体操の練習をした。

昨日(6月21日ー土)9時~12時、大久保スポーツプラザ和室で、ゆる体操の練習をした。毎月、第3土曜日に、この大久保スポーツプラザの和室で教室は開かれる。初めてから7年ぐらいになる(私は来て6年3ケ月が、先生は、ずーっと小松美冬先生が勤めてきた。部屋は50畳(9m×9m)の広さである。

写真は私達の練習場の和室の一部を、練習が終わって撮ったもの。昨日は生徒は6人といつもより少なかった感じ。その分、練習の密度は、濃かったと思う。

この教室は、私は先生が素晴らしいと思っているが、生徒もみんな面白い。「内容は、変化して行かなければならない」だの、「「体のさばきは、阿波踊りに似ている」だの、次から次にいろいろなことを言う。これまで聞くたびに、私は感心してきた。だから私は、この仲間に入れてよかったと思う。

昨日の練習でもいくつか、印象に残ったことがあったが、ただ一つをあげれば。「Do not think,Feel」という言葉。この教室で聞いた言葉は、いくつか印象に残っているが、その一つを言えば「体操をしながら、自分の体を見つめなさい。“こうしなさい”と、自分の脳が体に命令をしては駄目。脳が体に、“どうしたいの”、と聞きなさい」と、繰り返し聞いている。それを、端的に言ったのが、「Do not think,Feel」。何かあるたび、こんどそれを自分の脳に言おうと思った。

2014年6月20日金曜日

読書感想文 (近代民主主義の終末・・・葦津珍(うず)彦)を、2008年7月7日、私は書いた。

写真は新宿公園の中にある、熊野神社を、鳥居のこちら側から、撮った。戦後、神社庁を作るのに尽力した、葦津珍(うず)彦さんの書いた、「近代民主主義の終末」を、2008年に読み、7月7日、読書感想文を書いた。その内容は、次の通りである。

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読書感想文 (近代民主主義の終末・・・葦津珍(うず)彦)


<葦津珍彦さんと言う人>


葦津珍彦さんは、1909年福岡県に葦津耕次郎の長男として生まれ、1992年鎌倉の自宅で死にました。日本の神道家であり、思想家で右翼と一般に言われています。


東京府立第5中学では社会主義に熱中し周囲の家族は心配、府立5中を卒業後に親の勧めで進学しましたが、20歳まえで、国学院大学、東京外語大学、福島大学をそれぞれ中退し、1932年左翼から右翼に転向し父の経営していた社寺工務所をつぎました。戦前は、日独伊の三国同盟に反対するなど、東条英機に逆らい、逮捕・投獄を経験し、戦後はマッカーサに逆らいMPが家にはりついたという闘士でもあります。戦後1946年2月神社本庁の設立に大きな役割を果たし、7月には神社新報を発刊し、主筆となりました。


議員の鈴木宗雄さんが逮捕されたとき、一緒に逮捕された外務省職員の佐藤優さんが、韓国のスパイであった高英哲さんと対談した「国家情報戦略」で、葦津耕次郎さんと珍彦さんの二人の言ったことを取り上げています。このとき一部の世界でしか有名でない、葦津耕次郎さんと珍彦さんを取り上げたことに、「佐藤優さんは勉強家だな」と私は思いました。


この文章は、1963年雑誌「新勢力」に書かれたものに、補筆を加え1971年発行されたものです。そして本書は、さらにそのご長男が「昭和を読もう-その3」として2005年にあらためて、発刊したものでした。目次を拾ってみますと次のとおりす。


1.  近代民主主義の終末
2.日本思想の心理と論理
3.  近代日本国の思想史


これらが、1960年ごろ書かれたことに驚異の念を持ちますが、戦後60年から70年を経て、ようやくこれからこの本のようになって行くと思えます。この本は葦津珍彦さんの憲法改正の論でもありますが、大きな長い目でみれば、その通りと思えました。私が良く読む人達の意見と、葦津珍彦さんの意見は良く似ています。葦津珍彦さんは神道家ですから、天皇を解説した部分が沢山出て来ました。しかし、私はそこのところは全部理解できたわけではありません。また私は、天皇を体験しているわけではではありませんから、葦津珍彦さんの天皇賛美の気持ちは、良く理解できませんでした。


私を含む戦後生まれの大部分の日本人は、大抵身近には天皇を体験していません。それで、明治から昭和にかけて、日本がうまくいったのが一過性なのか、偶然が、うまくいかせたものなのかが分からないのです。私はこの期間、日本は大局的にはうまく行ったと思って来ました。そして、今もそう思っています。最近の報道など見ると、私などが言うべきことではないかも知れませんが、天皇もかわいそうに思えて来ました。


日本の形は素晴らしいと、(この本のように)言えるなら右翼もいいものだと思います。そして何故か思い出したのが、最近聞いた言葉でした。それは「謙虚、正直、親切、これが幸せをもたらす」です。この本を読んで、そういう心情が、葦津珍彦さんには溢れていると思いました。


<1.近代民主主義の終焉>


「1.近代民主主義の終焉」には次のようにあります。近代民主主義は西欧に起こったもので、アメリカという特殊な成功事例のなかで結実したが、その背景にはキリスト教が、特にカルビン派清教徒があるのだ。キリストの思想では、人間である私たちには、宿罪があるといいます。そして人間一人一人は神と契約しているが、人間対人間の契約はないのだ。政府は、神が作った人間が、作ったもので本当はないほうがいい。しかし、人間には宿罪があるので政府はなければならないと、アメリカ・西欧は考えているのだそうです。


江戸から明治にかけては当時強かった西欧を、そして戦後は敗戦国としてアメリカを真似た(エピゴーネンの)日本が、西洋の成り立ちを、深く考えるべきとしています。アメリカに影響を与えたのは、影響力のなかったルソーではなく、同じヨーロッパのロックやペインで、アメリカを象徴するのはジェファーソンの独立宣言にあるとしています。西欧には国王がいて必ずしも民主主義ではなかったが、アメリカはそこから自由で民主主義が根付いたと見ています。


しかし、アメリカにはインディアンを虐殺した、アフリカの黒人を奴隷にしたなどの負い目があるので、行き詰まり、終末が来るとこの本は予測しています。対する東洋の解説では、孟子の論がのり、上杉鷹山や中江兆民が言ったことが載っていました。これらを読むと、「東洋がいいのかな」と私も思います。


この章の最後で、葦津珍彦さんは次のように述べています。


・・・この近代民主主義アメリカの亡滅的な危機は、ただの勇気の欠如から来たものではなくして、その根はもっと深い。未開の荒野でのみ通用するような、社会契約、天賦人権の民主主義的な国家観が、その後の2世紀の「国の歴史」の重みにたえがたくなったからのことである。歴史なき国家観に基づく国が、2世紀の巨大な歴史を作ってきたことの矛盾とも称すべきものであろう。この近代民主主義の亡滅の告白を聞きながら、いまもなおアメリカ的民主主義を「人類普遍の原理」だなどと思っているのは、アナクロニズム(時代錯誤)のはなはだしいものではないか。欧米伝来の近代的民主政治に大きな行き詰まりが現れ、その終末の日が近いのは明らかである。(え、これが50年前に書かれたものなの・・・今の私の感想)


<2.日本思想の心理と論理>


「2.日本思想の心理と論理」には、帝国憲法が出てきます。そしてそこには、次のようにありました。帝国憲法を作るにあたっては、伊藤博文などがドイツへ行ってその憲法を参考にしたが、内容は、日本独自のもので、最低ペルーが来た、弘化・嘉永のころにさかのぼらなければならない。帝国憲法は、日本的心情が、西洋文化のうえに乗っているものだそうです。葦津珍彦さんは帝国憲法を良し、としていますが、帝国憲法のはじまりである「五箇条の御誓文」には確かにいいことが書いてあります。


ちなみに「五箇条の御誓文」は、明治元年(1868年)に天皇の名前で出されたもの。帝国憲法は明治22年(1889年)に井上毅が中心になって書いて、伊藤博文が直し、天皇から当時の首相である黒田清隆に手渡されたもの。また、「五箇条の御誓文」は坂本竜馬の「船中八策」をもとにしていました。「五箇条の御誓文」は次のとおりです。


一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
一、官武一途庶民ニ至ルマデ各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
一、知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ


江戸時代末期、ペルーが来ました。その後、幕府の阿部伊勢守などは、清などのアヘン戦争を見るなどして、天下の人心を統一して対抗せねばならぬとさとります。そして、雄藩をはじめ全天下の公論をもとめました。これが倒幕にもつながったのでしょうが、一方では、帝国憲法にもつながって行ったのです。


葦津珍彦さんはこの章で、忠をよきものとして語ります。孫文も出てきました。楠正成も出てきました。それが祭祀と統治につながっていくのだと思います。統治は、たてまえでは天皇がするものですが、実際は専門家が行います。そこを、詔書の起案や審議をしばしば経験した吉田茂(戦後の首相とは違う人で、この人は戦後神社本庁の事務総長も勤めます)さんの談話として次のように語らせます。


・・・書記官長も詔書の起案には2、3の助言者を求めて執筆するが、その時の心境は全く平常とは異なるものとなる。自分というものを考えない。陛下の御心境、御立場を拝察しての歴史的文章であることを考えているので、平素には思いも及ばぬような高い心境に到達する。


<3.近代日本国の思想史>


「3.近代日本国の思想史」にはいろいろなこと・人が出てくる。徳川家康もでて来た。明治維新と吉田光陰なども出てくる。日清・日露戦争も出て来た。明治天皇の死もでてくる。満州事変から太平洋戦争までも出て来た。皆日本人が、一生懸命だったということが分かる。これは私が変な説明を加えるよりはいいと思うので、徳川家康のいったことと、太平洋戦争のことについて、この本で書かれていることをあげて、私の読書感想文を終わりにします。


・・・かれは、その子孫への遺訓に於いては、「凡そ所謂忠とは、あに独り徳川氏に忠なるのみならんや。すなわち天に忠なる者なり。我もまた天に忠なる者なり。故に天これに授けるに大柄を以ってす。然れども自らその柄を有し驕奢怠惰、以って生民を虐げれば、則ち天将にこれを奪わんとす。」


・・・われわれは、日本軍が純粋に利他的に解放者としてのみ働いたなどというつもりは全くない。日本軍の意識の中には征服者的なものも秘められてもいたであろうし、その行動には、専横で圧迫的な要素もあった。しかしそれと同時に、解放者としての使命感と解放者としての行動もあった。二つの潮流があい合流していた。そこに歴史の真相がある。


・・・(東京裁判において)その濁れるもののみを指摘して、清流を否定するところにキーナン検事のデマゴギーがある。これに比すればインドのパール判事は、さすがに公平であった。日本人の書く大東亜戦争史が、祖国と東洋の独立と開放を志して、雄々しくその生命を捧げた忠烈の勇士たちの心情に対して、失礼であることは許されないと思う。